聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 110 完


ルカの福音書24章36節~53節

先週は、13節、【女性たちが主の復活に与ったのと】同じ日、ここでも主が、弟子たちに 《 待たれていたお方としては迎えられなかった 》 悲しいエマオの途上での出来事に注目した。
その道々、復活の主から、25、26節 「ああ、愚かな者たち」との叱責、27節での聖書の説き明かしに与りながらも悟らなかった弟子たちだったが、遂に、お泊まりを願って応えられたその時、30節 「食卓」で祈られる主によって目覚めた !!
かつての忘れもしない、主が少年の持っていた「大麦のパン五つと、魚二匹」を受け取って感謝の祈りを捧げた時の 《 五千人への給食 》 経験の再現に与ったことによってである。
この事実から、弟子たちが、目の前に顕現するお方が 《 復活された主だ !! 》 と知って生きるには ? もし互いも、主を信じながら失望する日々にあるならば、熟慮すべきことは ?

ⅰ 19節 「この方は神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした」と 《 主を唯の預言者だとし、偉大ではあるがあくまでも過去のお方だとする知り方ではなく、現に存在する神である 》 との信仰に生きるべきこと。

ⅱ 25、26節 「ああ、愚かな者たち」の叱責に謙るべきこと。
弟子たちの愚かさは ※ 20~24節 「それなのに・・・」と言う点。
彼らが 《 主の語られる全てを信じられなかった 》 のは、「この方こそ」との期待が 《 単なる地上的解放者であることにしかなく、受難後勝利される魂の解放者にではなかった 》 ことにある。問題の解決に関心 ? 霊的変貌に関心 ?

※ 地上生涯は私たちの究極の求めが何なのかを篩( ふるい )にかける期間と覚えて自戒を【ピリピ 3章7~11節】、と。


今朝は、復活の主を目の当たりにしながらも、37節 「おびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った」弟子たちを、ご自身の御体が復活の体に変えられたことと、ご自身に関して預言されて来た聖書が成就したとの証しとをもって勇気付けて後、彼らに昇天前に 《 重要な使命 》 を明らかにされたおことばに注目して、『 ルカ 』 の連講を締め括りたい。
その 《 重要な使命 》 とは、48節 「あなたがたは、これらのことの証人となります」である。同じくルカによる 『 使徒の働き 』 1章8節には、「わたしの証人となります」とある。
新約聖書で用いられている「証人」とは、( ギ )マルテュスで、福音の為に殉教した人々に用いられ、( 英 )martyr / マータ 殉教者はここから来ている。弟子たちは、主の為に血を流す生涯を覚悟すべく召された人々だと言われたことになる。主の昇天される地上最後の遺言的おことばとして、弟子たちが聞かなければならなかったおことばがこれだったのだ。
しかしこの遺言となったおことばにしても、弟子訓練開始以来、ずっと主が明確にして来られたことだった。
9章22、23節 「・・・イエスは皆に言われた。『 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい・・・ 』 」と。弟子たちがこのおことばを初めてお聞きした時には、到底納得出来るものではなく、個人的損失を計算して強硬に退けようとさえした。
しかしその弟子たちも、主と生活を共にする中で主を知るようになり、最後の晩餐では「あなたとご一緒なら、 22章33節」と言うところにまで主への愛が育って行ったのだ。
従って、主の弟子たちへのこの宣言は、彼らには耳新しいものではなく、しっかり受止めることの出来るものであり、信任して招かれた召しだったということになる。
私どもも、年頭聖句として元旦礼拝では、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 マタイ 16章24節」の招きから始まったことを想起し、この 《 重要な使命 》 の何なるかを再確認したい。

① 証人として 《 託され、確信すべきメッセージ 》 は ?

48節 「あなたがたは、これらのことの証人となります」と明確で、46、47節 「次のように書いてあります。『 キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 』 【詳訳】エルサレムから始まる」という福音である。この福音について・・・
a. 「次のように書いてあります」と、長きにわたって預言され、待望され、時が満ちて遂に、用意周到で準備されて成就した出来事が福音であるとの 《 福音の権威ある出所 》 が明白にされている。
パウロによって、コリント 第一 15章1~11節 「・・・私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです」と、実践されている。ペテロによると、ペテロ 第二 1章16~21節 「・・・それは、巧みな作り話によったのではありません」と言っているように、聖書的権威に基づいて成就した出来事であること。
b. 「キリストは苦しみを受け、三日目に・・・よみがえり、その名によって」と、主イエスの身代わりの死と復活によって 《 イエスの名【マタイ 1章21節】が意味する ⇒ 罪から民を救う 》 が成就した歴史的事実であること。
c. 福音のエッセンスが、「罪の赦しを得させる悔い改め」にあること。この「悔い改め」とは、使徒 26章18節 「彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって」とあり、180度 方向転換することである。

② 弟子たちをして「証人」とする 《 原動力 》 は ?

49節 「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられる」ことである。即ち、「父が約束されたもの」とは 《 賜物としての聖霊 》 である。聖霊こそが、「いと高き所から力」を、注がれる聖霊ご自身こそが、原動力だと ⇒ 使徒 1章8節 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます」。生来の熱心さでは到底適わない、と言うより、宣教の妨げにしかならないからである。
その為には、「・・・着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」に従うこと。弟子たちは生来の肉を持って主を裏切った事実に苦しんで嘆き、満たしを渇いて求めること。
使徒 2章1~4節のペンテコステから宣教の開始が !!

※ その日以来、続けられている宣教の働きに私たちも !!

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