ルカの福音書24章13節~35節
先週は、主が贖( あがな )いを成し遂げて復活されたという最も輝かしい喜びの記事に学んだ。但し、旧約時代の長きにわたって待望されて成就した 《 救い主の誕生 》 が賛美で迎えられた以上に、歓喜の声をもって迎えられるべき復活だったにも拘らず【主にとっては贖いの成就に向けての厳しいご受難の生涯の始まりの日に勝って、贖いが成就したとの証が告げられる勝利の日だったが】、何と !! 悲しいかな、この日の為に何度も告知されていたにも拘らず、7節 「主がお話しになったことを思い出しなさい」と言われて初めて知った出来事だったと。
「主イエスのからだ」が見当たらないと知って ※ 4節 「途方に暮れ」た女性たち。その後、御使いに諭されてやっと、復活されたと知って他の人々に伝えに行ったものの、10、11節 「この話はたわごとのように思えた・・・信じなかった」という始末。
本来、三日目には埋葬された主の墓の前で期待に胸を膨らませてお迎えすべきだったが、誰もいなかった !! 弟子たちが 《 語られる主の御思いには無関心で、不真面目で、危機感の皆無、怠惰、うわの空 》 でしかなかったからだと。
主をお迎え出来なかった、その「つまずき」の根にあるものは ?
マタイ 16章21~23節 「神のことを思わないで、人のことを思っている」この肉の性質【自分の願いに反することなど聞きたくもないとして心を閉ざす頑なな自我】。
※ 5節 「主がお話しになったことを思い出しなさい」は、聞き捨てならないことば !! 主の復活の事実こそ望みだという重大な福音が最初に届けられた時、こんなにも悲惨な受け止められ方だったとは、ひとごとではないと、正された。
今朝は、13節から、詳訳 「見よ、その日のこと」、即ち御使いから、6、7節 「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう」と諭されて初めて、主がご自身の復活を語っておられたと ※ 8節 「思い出した」女性たちが、喜び勇んで他の弟子たちを驚かせたのと 《 同じ日のこと 》、「・・・弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン ※ ( 約11キロメートル )余り離れた、エマオという村に向かっていた」時に、主が直接彼らにご自身を現された場面に注目する。
何と !! 同じ日、ここでも主は、弟子たちによって 《 待ちに待ったお方としては迎えられなかった 》 という、重ねて弟子たちの無知を見なければならない、悲しい出来事だった。
それは、ここでは御使いではなく、道々復活された主から直接、25、26節 「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか」と叱責され、更に、27節 「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた」という熱意に与りながら、それでも悟らず、遂に、主を主とは知らずに、しかしこのように語る人には関心を寄せたからか、一緒に泊まるよう願って応えられるや初めて、30節 「食卓」で祈られる主によって目覚めたという出来事。
実際、復活後、主が直接弟子たちに顕現されたにも拘らず、皆そのお方が主であると気付かなかったのは、この時だけではなかった点に注目すべきである。
ヨハネ 20章14、15節 「・・・イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。イエスは彼女に言われた。『 なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。 』 彼女は、彼が園の管理人だと思って・・・」、21章4節 「夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。イエスは彼らに言われた。『 子どもたちよ、食べる魚がありませんね。 』 彼らは答えた。『 ありません。 』 」と、何れの場合も、主を見、主と言葉を交わしておきながら、主であるとは分からなかった !!
ところが遂にはその彼らが 《 何れの場合もご生前の主を思い起こさせられる場面に与らせて頂く事によって 》 目を開いて頂いたというのだ。
マグダラのマリアは主から聞き慣れた声で呼んで頂いた経験、弟子たちがかつてティベリア( 別名・ガリラヤ、ゲネサレ )湖畔で、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と声を掛けられ、忘れもしない、不承不承従った時に経験したあの大漁と正に同様の経験。ここエマオの出来事では、24章30節 「パンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された」とは、主が、少年が持っていた「大麦のパン五つと、魚二匹」を受け取られて捧げた「感謝の祈り」のこと、これも忘れもしない 《 五千人の給食 》 の再現である。
この事実から、弟子たちが、目の前に顕現するお方が 《 復活された主だ !! 》 と知って生きるには ? もし互いも、主を信じる者でありながら失望する日々ならば、熟慮すべきことは ?
① 19節 「この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした」という 《 主を唯の預言者で、偉大ではあるがあくまでも過去のお方だとする知り方ではなく、現に存在する神である 》 との信仰に生きるべきこと。
ひと度、弟子たちが主のご生前中に経験した主を想起させられて、初めてあのお方は唯の預言者ではなく、「生ける神の子キリスト」だったと再認識した。これを私たちは当然だと言うだろうか ? 得てして私たちの日常は、主から敢えて、「わたしは神であって、人ではなく・・・ ホセア書 11章9節」と詰問されるべき状態との自戒が必要なのでは ? 人間的見方で神を見る冒涜は ? 主を主とお認めしているか ?
② 25、26節 「ああ、愚かな者たち」の叱責に謙るべきこと。
弟子たちの ※ 20~24節 「それなのに・・・」と言う、この愚かさ。彼らの何が 《 主の語られる全てを信じられなくさせた 》 のか ? 「この方こそ」と期待する目当てが 《 単なる地上的な解放者であることにしかなく、受難後に勝利される魂の解放者であることにはなかった 》 ことにある。問題の解決に関心 ? それとも霊的変貌に関心 ? の何れかの吟味が必要。
※ 地上生涯は、私たちの究極の求めが何なのかを篩( ふるい )にかける期間と覚えて自戒を。ピリピ 3章7~11節。
先週は、主が贖( あがな )いを成し遂げて復活されたという最も輝かしい喜びの記事に学んだ。但し、旧約時代の長きにわたって待望されて成就した 《 救い主の誕生 》 が賛美で迎えられた以上に、歓喜の声をもって迎えられるべき復活だったにも拘らず【主にとっては贖いの成就に向けての厳しいご受難の生涯の始まりの日に勝って、贖いが成就したとの証が告げられる勝利の日だったが】、何と !! 悲しいかな、この日の為に何度も告知されていたにも拘らず、7節 「主がお話しになったことを思い出しなさい」と言われて初めて知った出来事だったと。
「主イエスのからだ」が見当たらないと知って ※ 4節 「途方に暮れ」た女性たち。その後、御使いに諭されてやっと、復活されたと知って他の人々に伝えに行ったものの、10、11節 「この話はたわごとのように思えた・・・信じなかった」という始末。
本来、三日目には埋葬された主の墓の前で期待に胸を膨らませてお迎えすべきだったが、誰もいなかった !! 弟子たちが 《 語られる主の御思いには無関心で、不真面目で、危機感の皆無、怠惰、うわの空 》 でしかなかったからだと。
主をお迎え出来なかった、その「つまずき」の根にあるものは ?
マタイ 16章21~23節 「神のことを思わないで、人のことを思っている」この肉の性質【自分の願いに反することなど聞きたくもないとして心を閉ざす頑なな自我】。
※ 5節 「主がお話しになったことを思い出しなさい」は、聞き捨てならないことば !! 主の復活の事実こそ望みだという重大な福音が最初に届けられた時、こんなにも悲惨な受け止められ方だったとは、ひとごとではないと、正された。
今朝は、13節から、詳訳 「見よ、その日のこと」、即ち御使いから、6、7節 「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう」と諭されて初めて、主がご自身の復活を語っておられたと ※ 8節 「思い出した」女性たちが、喜び勇んで他の弟子たちを驚かせたのと 《 同じ日のこと 》、「・・・弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン ※ ( 約11キロメートル )余り離れた、エマオという村に向かっていた」時に、主が直接彼らにご自身を現された場面に注目する。
何と !! 同じ日、ここでも主は、弟子たちによって 《 待ちに待ったお方としては迎えられなかった 》 という、重ねて弟子たちの無知を見なければならない、悲しい出来事だった。
それは、ここでは御使いではなく、道々復活された主から直接、25、26節 「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか」と叱責され、更に、27節 「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた」という熱意に与りながら、それでも悟らず、遂に、主を主とは知らずに、しかしこのように語る人には関心を寄せたからか、一緒に泊まるよう願って応えられるや初めて、30節 「食卓」で祈られる主によって目覚めたという出来事。
実際、復活後、主が直接弟子たちに顕現されたにも拘らず、皆そのお方が主であると気付かなかったのは、この時だけではなかった点に注目すべきである。
ヨハネ 20章14、15節 「・・・イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。イエスは彼女に言われた。『 なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。 』 彼女は、彼が園の管理人だと思って・・・」、21章4節 「夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。イエスは彼らに言われた。『 子どもたちよ、食べる魚がありませんね。 』 彼らは答えた。『 ありません。 』 」と、何れの場合も、主を見、主と言葉を交わしておきながら、主であるとは分からなかった !!
ところが遂にはその彼らが 《 何れの場合もご生前の主を思い起こさせられる場面に与らせて頂く事によって 》 目を開いて頂いたというのだ。
マグダラのマリアは主から聞き慣れた声で呼んで頂いた経験、弟子たちがかつてティベリア( 別名・ガリラヤ、ゲネサレ )湖畔で、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と声を掛けられ、忘れもしない、不承不承従った時に経験したあの大漁と正に同様の経験。ここエマオの出来事では、24章30節 「パンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された」とは、主が、少年が持っていた「大麦のパン五つと、魚二匹」を受け取られて捧げた「感謝の祈り」のこと、これも忘れもしない 《 五千人の給食 》 の再現である。
この事実から、弟子たちが、目の前に顕現するお方が 《 復活された主だ !! 》 と知って生きるには ? もし互いも、主を信じる者でありながら失望する日々ならば、熟慮すべきことは ?
① 19節 「この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした」という 《 主を唯の預言者で、偉大ではあるがあくまでも過去のお方だとする知り方ではなく、現に存在する神である 》 との信仰に生きるべきこと。
ひと度、弟子たちが主のご生前中に経験した主を想起させられて、初めてあのお方は唯の預言者ではなく、「生ける神の子キリスト」だったと再認識した。これを私たちは当然だと言うだろうか ? 得てして私たちの日常は、主から敢えて、「わたしは神であって、人ではなく・・・ ホセア書 11章9節」と詰問されるべき状態との自戒が必要なのでは ? 人間的見方で神を見る冒涜は ? 主を主とお認めしているか ?
② 25、26節 「ああ、愚かな者たち」の叱責に謙るべきこと。
弟子たちの ※ 20~24節 「それなのに・・・」と言う、この愚かさ。彼らの何が 《 主の語られる全てを信じられなくさせた 》 のか ? 「この方こそ」と期待する目当てが 《 単なる地上的な解放者であることにしかなく、受難後に勝利される魂の解放者であることにはなかった 》 ことにある。問題の解決に関心 ? それとも霊的変貌に関心 ? の何れかの吟味が必要。
※ 地上生涯は、私たちの究極の求めが何なのかを篩( ふるい )にかける期間と覚えて自戒を。ピリピ 3章7~11節。
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