ルカの福音書24章1節~12節
先週、十字架上で身代わりの死を遂げられた主のみ体の埋葬に用いられた人物、「アリマタヤのヨセフ」に注目した。
23章50節 「議員の一人」だった彼は、51節 「議員たちの計画や行動には同意」せずに居たが、ヨハネ 19章38節 「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」とあり、信仰の戦いを戦っていた人だったことが窺( うかが )える。
主の人気が高まる中での議会は、ヨハネ 7章47、48節 「お前たちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか」との騒々しさが増す中で・・・。
主の埋葬に適った器の選び( イザヤ書 53章9節 )は何処に ?
ⅰ 世的には申し分のない立場【マタイ 27章57節 「金持ち」、マルコ 15章43節 「有力な議員」】にあったが、決してそこに安住出来ずに、安住せずに、ルカ 23章51節 「神の国を待ち望んでいた」人だったことにある。
ⅱ 立場が立場であっただけに、信仰告白に時機を待ちつつ、議会には妥協せずに、50節 「善良で正しい人」、主の聖前での正しい関係で生きる者であったところに。
ⅲ マルコ 15章43節 詳訳 「結果を恐れずに、勇気を出して【敢えて・・・困難な状況や心理的抵抗を押して物事を行う様。そうするだけの価値があるものとして行う】」と、告白すべき導きを得た時には、明け渡す者であったところに。
※ 逸( はや )る肉的熱心さで最高法院から追放される事態を招かずに、主を求めつつ議員の立場に留まって居たからこそ、ピラトとは対等に願い出られたのでは ? いつでも信仰は 《 主との関係が如何に忠実であるか 》 に心したい、と。
今朝は、「世の罪を取り除く神の小羊」としての死を、十字架上で成し遂げられた主が、予告通りによみがえられたという最も輝かしい訪れを伝える喜びの記事に入る。
主がこの世にご降誕下さった初めの日に、もう一度思いを寄せてみたい。御使いが野宿する羊飼いに伝えられた訪れの日のことである。ルカ 2章10、11節 「御使いは彼らに言った。恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」だったことを。御使いによって羊飼いに伝えられた救い主の誕生の知らせは、「大きな喜び」だったのだ。
それは、旧約時代の長きにわたって待望し続けて来ていた訪れだったからだ。その時、2章13、14節 「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。『 いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。 』 」という天の軍勢による賛美の轟きに圧倒された羊飼いたちは、直ちに ※ 15節 「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」と、その場所を捜し当てようと胸を躍らせ、喜び勇んで直ちに出掛けたのだ。
20節 「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあるが、彼らの歓喜に満ち溢れた喜びようは、どれ程のものだったことか !!
その日から始まった主の「世の罪を取り除く神の小羊」としての33年間を、私たちは23章までの記事に【イザヤ書 53章3節 「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」とある】預言の成就を見て来た。
24章まである 『 ルカ 』 の内、9章51節から23章まで、ほぼ 『 ルカ 』 の三分の二のボリュームにおいて 《 十字架の日に向かっての数か月の宣教の旅 》 だったことを鑑みるに、その間の主の十字架に向かっての犠牲が、全てこの24章の復活に向けて払われて来た代価だったことに思いを馳せなければならない。それと言うのも、24章6、7節 「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう」と、かねてから予告されていたのが 《 主の復活 》 だったから ⇒ 9章22節。
今朝はこの一つの事に注意してメッセージとしたい。それは、主の弟子でありながら、聞いてはいたものの少しも期待もせず、むしろ聞かされてなどいなかった者のようであること。
4節a 「途方に暮れている」女性たち、しかし、4節a’ 「まばゆいばかりの衣を着た人( 御使い )が二人」によって、5b、6節で「思い出しなさい」と諭されてやっと、8節 「イエスのことばを思い出した」彼女たちが、10、11節で他の人々に伝えても、「この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった」という始末。
12節を見ると、辛うじてペテロは立ち上がって走って墓に行ったものの、亜麻布だけだったのを見て、唯この出来事に驚きながら帰って行くだけだったという鈍さの露呈。
実際は、贖( あがな )いが成し遂げられた証としてのこの復活こそ、ご降誕時の「おびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した」という光景に勝る歓喜で賛美され、迎えられるべき福音だったにも拘らずなのだ。
神が人には測り知れないご計画を成し遂げて下さっても、果たしてどれだけの人が 《 あの純朴な羊飼いが経験したような歓喜 》 を経験するのか !? 弟子たちに見た 《 無知、語られる主の御思いに無関心、不真面目、危機感の皆無、怠惰、うわの空 》 によるとの自戒を。
主の「つまずき」となる 《 この現れの根に在るもの 》 とは ?
マタイ 16章21~23節 「あなたは、わたしをつまずかせるもの【妨害、罠】だ。・・・神のことを思わないで、人のことを思っている」この肉の性質【自分の願いに反することなど聞きたくもないとして、心を閉ざす頑なな自我】。同 17章23節 詳訳 「弟子たちはそれで深く激しく嘆いた」に同様。
※ 5節 「どうして生きている方を死人の中に捜すのですか・・・主がお話しになったことを思い出しなさい」は、聞き捨てならないおことば !! 主の復活の事実こそ、弟子の望み !! これ程重大な福音が最初に届けられた時、こんなにも悲惨な受け止められ方だったとは。決して、ひとごとではない。今の私は主の語られるおことばに誠実だろうか、正されたい。
先週、十字架上で身代わりの死を遂げられた主のみ体の埋葬に用いられた人物、「アリマタヤのヨセフ」に注目した。
23章50節 「議員の一人」だった彼は、51節 「議員たちの計画や行動には同意」せずに居たが、ヨハネ 19章38節 「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」とあり、信仰の戦いを戦っていた人だったことが窺( うかが )える。
主の人気が高まる中での議会は、ヨハネ 7章47、48節 「お前たちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか」との騒々しさが増す中で・・・。
主の埋葬に適った器の選び( イザヤ書 53章9節 )は何処に ?
ⅰ 世的には申し分のない立場【マタイ 27章57節 「金持ち」、マルコ 15章43節 「有力な議員」】にあったが、決してそこに安住出来ずに、安住せずに、ルカ 23章51節 「神の国を待ち望んでいた」人だったことにある。
ⅱ 立場が立場であっただけに、信仰告白に時機を待ちつつ、議会には妥協せずに、50節 「善良で正しい人」、主の聖前での正しい関係で生きる者であったところに。
ⅲ マルコ 15章43節 詳訳 「結果を恐れずに、勇気を出して【敢えて・・・困難な状況や心理的抵抗を押して物事を行う様。そうするだけの価値があるものとして行う】」と、告白すべき導きを得た時には、明け渡す者であったところに。
※ 逸( はや )る肉的熱心さで最高法院から追放される事態を招かずに、主を求めつつ議員の立場に留まって居たからこそ、ピラトとは対等に願い出られたのでは ? いつでも信仰は 《 主との関係が如何に忠実であるか 》 に心したい、と。
今朝は、「世の罪を取り除く神の小羊」としての死を、十字架上で成し遂げられた主が、予告通りによみがえられたという最も輝かしい訪れを伝える喜びの記事に入る。
主がこの世にご降誕下さった初めの日に、もう一度思いを寄せてみたい。御使いが野宿する羊飼いに伝えられた訪れの日のことである。ルカ 2章10、11節 「御使いは彼らに言った。恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」だったことを。御使いによって羊飼いに伝えられた救い主の誕生の知らせは、「大きな喜び」だったのだ。
それは、旧約時代の長きにわたって待望し続けて来ていた訪れだったからだ。その時、2章13、14節 「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。『 いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。 』 」という天の軍勢による賛美の轟きに圧倒された羊飼いたちは、直ちに ※ 15節 「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」と、その場所を捜し当てようと胸を躍らせ、喜び勇んで直ちに出掛けたのだ。
20節 「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあるが、彼らの歓喜に満ち溢れた喜びようは、どれ程のものだったことか !!
その日から始まった主の「世の罪を取り除く神の小羊」としての33年間を、私たちは23章までの記事に【イザヤ書 53章3節 「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」とある】預言の成就を見て来た。
24章まである 『 ルカ 』 の内、9章51節から23章まで、ほぼ 『 ルカ 』 の三分の二のボリュームにおいて 《 十字架の日に向かっての数か月の宣教の旅 》 だったことを鑑みるに、その間の主の十字架に向かっての犠牲が、全てこの24章の復活に向けて払われて来た代価だったことに思いを馳せなければならない。それと言うのも、24章6、7節 「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう」と、かねてから予告されていたのが 《 主の復活 》 だったから ⇒ 9章22節。
今朝はこの一つの事に注意してメッセージとしたい。それは、主の弟子でありながら、聞いてはいたものの少しも期待もせず、むしろ聞かされてなどいなかった者のようであること。
4節a 「途方に暮れている」女性たち、しかし、4節a’ 「まばゆいばかりの衣を着た人( 御使い )が二人」によって、5b、6節で「思い出しなさい」と諭されてやっと、8節 「イエスのことばを思い出した」彼女たちが、10、11節で他の人々に伝えても、「この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった」という始末。
12節を見ると、辛うじてペテロは立ち上がって走って墓に行ったものの、亜麻布だけだったのを見て、唯この出来事に驚きながら帰って行くだけだったという鈍さの露呈。
実際は、贖( あがな )いが成し遂げられた証としてのこの復活こそ、ご降誕時の「おびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した」という光景に勝る歓喜で賛美され、迎えられるべき福音だったにも拘らずなのだ。
神が人には測り知れないご計画を成し遂げて下さっても、果たしてどれだけの人が 《 あの純朴な羊飼いが経験したような歓喜 》 を経験するのか !? 弟子たちに見た 《 無知、語られる主の御思いに無関心、不真面目、危機感の皆無、怠惰、うわの空 》 によるとの自戒を。
主の「つまずき」となる 《 この現れの根に在るもの 》 とは ?
マタイ 16章21~23節 「あなたは、わたしをつまずかせるもの【妨害、罠】だ。・・・神のことを思わないで、人のことを思っている」この肉の性質【自分の願いに反することなど聞きたくもないとして、心を閉ざす頑なな自我】。同 17章23節 詳訳 「弟子たちはそれで深く激しく嘆いた」に同様。
※ 5節 「どうして生きている方を死人の中に捜すのですか・・・主がお話しになったことを思い出しなさい」は、聞き捨てならないおことば !! 主の復活の事実こそ、弟子の望み !! これ程重大な福音が最初に届けられた時、こんなにも悲惨な受け止められ方だったとは。決して、ひとごとではない。今の私は主の語られるおことばに誠実だろうか、正されたい。
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