ルカの福音書23章50節~56節
先週私たちは、午前九時の処刑から息を引き取られる午後三時までの六時間に及ぶ十字架上での主のご聖務に臨んだ。
主の地上における贖( あがな )い主としてのご生涯の真価は、この最期の六時間にかかっていた。主のこの最期が正念場であると知っているサタンから受ける執拗な挑戦は、地上生涯どの場面での経験より、熾烈さを増していた。【十字架上の七言】を、十字架上での主のご聖務のご様子を知る重要な手掛かりとしつつ、その頂点としての、46節 「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」によって、主に近づいた。
何故なら、このおことばは、聖父の御心を完全に成し遂げて「息を引き取られ」る直前の 《 勝利宣言 》 となったから。
十字架上の主には、最早神は「父」ではなく、「わが神」としてしかお呼び出来ない、呪われた罪人として裁かれた。
その恐怖心の現れは、ヨハネ 19章28節 「わたしは渇く」の叫びにあり、地獄の苦しみ悶( もだ )える恵みからの絶縁状態に。
人類の 《 罪の報酬としての死 》 を、代わって壮絶な苦悩を味わわれた時、主は、ヨハネ 19章30節 「完了した」、全てが終わったと仰った時の最期のおことばが、この「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」だったから・・・。何という勝利 !! 主は最期に、「神よ」ではなく、もう一度「父よ」と、何一つ距離感もなく、かつて持っておられた関係でお呼びすることが出来るようになられたのだから。
ご自身の死は 《 人類の身代わりの死であり、神とは絶対的信頼関係にあって 》 贖いが成就したとの確信を貫かれた証。
※ 如何なる時にも、主の犠牲故にある幸いを確信したい、と。
今朝は、十字架上で身代わりの死を遂げられた主のみ体の埋葬について記している四福音書を読み比べながら、この葬りに用いられた人物「アリマタヤのヨセフ」に注目を。
彼は、23章50節 「議員の一人」、エルサレム最高法院の議員だったと明記されている。ということは、23章1節で「集まっていた彼ら全員は立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」時には、彼も又、そこに居合わせていたのだ。
しかし彼は、51節では「議員たちの計画や行動には同意していなかった」とあることから、かなりの内的葛藤があったことが想像出来る。更にヨハネはその福音書の中で、19章38節 「イエスの弟子であった【マタイ 27章57節 「彼自身もイエスの弟子になっていた」】が、ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」と語っている。即ち、ユダヤ教の本山であるエルサレム最高法院で、国民の人望を集めている議員という立場に置かれていながら、イエスの弟子となっているという、ユダヤ教徒からすれば、許し難き敵、除名処分を余儀なくされるべき存在になっていたということなのだ。
ユダヤ教徒からキリスト教徒に移行する過渡期にあっての戦いが如何に至難なものであったかが推察出来る。その緊張した空気を垣間見ることの出来る記事が、ヨハネ 7章45~52節にある。
主の人気が高まって行く中で、最高法院内が騒々しくなっていく様子を伝える記事である。ここには、埋葬に立ち会ったもう一人の議員ニコデモが登場するが、彼もヨセフ同様隠れクリスチャンだった。
議員たちが嫉妬する主の捕縛を狙っていたことから、45節 「なぜあの人を連れて来なかったのか」の詰問は当然。
続くやり取りは、46~49節 「下役たちは答えた。『 これまで、あの人のように話した人はいませんでした。 』 そこで、パリサイ人たちは答えた。『 おまえたちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。 』 」とある。ここにニコデモが知恵深く登場する。
50、51節 「彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。『 私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。 』 」と。
主が、ヨセフを主の埋葬の為にと選ばれた、主の選びとは ? ヨセフは、既に、イザヤ章 53章9節で預言されていた。
① ヨセフにしてもニコデモにしても、世的には申し分のない、高位高官の立場【マタイ 27章57節では「金持ち」、マルコ 15章43節 「有力な議員」】にあったが、決してそこに安住出来ずに、安住せずに、ルカ 23章51節 「神の国を待ち望んでいた」人だったことにある。
同じ議員の一人だったあの 《 若き役人 》 は、自らの欠如を知る点は別としても( ルカ 18・22 )、一般的議員。しかし彼らとは対照的だったのが、ヨハネ 3章2節 「私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています・・・」と、主を神と認めざるを得なくされていた二人。
主の許を悲しみながら去った若き役人は、自ら命を欠くとの自覚があったからこそ、主に「永遠のいのち」を求めた筈。ところが試された時、彼はこの富にしがみついた。主はこの世にあって霊的渇望を持つ者に目を留められるお方。
② 立場が立場であっただけに、信仰告白の至難さはあっても、彼らの霊的渇望は、単なる妥協によってではなく、その都度の真剣な主に向かう姿勢、ルカ 23章50節 「善良で正しい人」、即ち、主の聖前における正しい関係で生きる者であったところに。
そこには虚偽がない。彼らは、弟子であることを隠していたとは言え、偽って主を否定する態度でいた訳ではない。その生き方において、51節 「議員たち・・・には同意」せず、ニコデモに見たように毅然と発言する態度において真実だった。主の聖前での正しさに従って闘っていた。
③ マルコ 15章43節 詳訳 「結果を恐れずに、勇気を出して【敢えて・・・困難な状況や心理的抵抗を押して物事を行う様。そうするだけの価値があるものとして行う】」と、告白すべき導きを得た時には、明け渡す者であったところに。
※ 逸( はや )る肉的熱心で最高法院から追放される事態を招かずに、主を求めつつ議員の立場に留まって居たからこそ、ピラトと対等に、願い出られたのでは ? いつでも信仰は 《 主との関係が如何に忠実であるか 》 に心したい。
先週私たちは、午前九時の処刑から息を引き取られる午後三時までの六時間に及ぶ十字架上での主のご聖務に臨んだ。
主の地上における贖( あがな )い主としてのご生涯の真価は、この最期の六時間にかかっていた。主のこの最期が正念場であると知っているサタンから受ける執拗な挑戦は、地上生涯どの場面での経験より、熾烈さを増していた。【十字架上の七言】を、十字架上での主のご聖務のご様子を知る重要な手掛かりとしつつ、その頂点としての、46節 「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」によって、主に近づいた。
何故なら、このおことばは、聖父の御心を完全に成し遂げて「息を引き取られ」る直前の 《 勝利宣言 》 となったから。
十字架上の主には、最早神は「父」ではなく、「わが神」としてしかお呼び出来ない、呪われた罪人として裁かれた。
その恐怖心の現れは、ヨハネ 19章28節 「わたしは渇く」の叫びにあり、地獄の苦しみ悶( もだ )える恵みからの絶縁状態に。
人類の 《 罪の報酬としての死 》 を、代わって壮絶な苦悩を味わわれた時、主は、ヨハネ 19章30節 「完了した」、全てが終わったと仰った時の最期のおことばが、この「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」だったから・・・。何という勝利 !! 主は最期に、「神よ」ではなく、もう一度「父よ」と、何一つ距離感もなく、かつて持っておられた関係でお呼びすることが出来るようになられたのだから。
ご自身の死は 《 人類の身代わりの死であり、神とは絶対的信頼関係にあって 》 贖いが成就したとの確信を貫かれた証。
※ 如何なる時にも、主の犠牲故にある幸いを確信したい、と。
今朝は、十字架上で身代わりの死を遂げられた主のみ体の埋葬について記している四福音書を読み比べながら、この葬りに用いられた人物「アリマタヤのヨセフ」に注目を。
彼は、23章50節 「議員の一人」、エルサレム最高法院の議員だったと明記されている。ということは、23章1節で「集まっていた彼ら全員は立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」時には、彼も又、そこに居合わせていたのだ。
しかし彼は、51節では「議員たちの計画や行動には同意していなかった」とあることから、かなりの内的葛藤があったことが想像出来る。更にヨハネはその福音書の中で、19章38節 「イエスの弟子であった【マタイ 27章57節 「彼自身もイエスの弟子になっていた」】が、ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」と語っている。即ち、ユダヤ教の本山であるエルサレム最高法院で、国民の人望を集めている議員という立場に置かれていながら、イエスの弟子となっているという、ユダヤ教徒からすれば、許し難き敵、除名処分を余儀なくされるべき存在になっていたということなのだ。
ユダヤ教徒からキリスト教徒に移行する過渡期にあっての戦いが如何に至難なものであったかが推察出来る。その緊張した空気を垣間見ることの出来る記事が、ヨハネ 7章45~52節にある。
主の人気が高まって行く中で、最高法院内が騒々しくなっていく様子を伝える記事である。ここには、埋葬に立ち会ったもう一人の議員ニコデモが登場するが、彼もヨセフ同様隠れクリスチャンだった。
議員たちが嫉妬する主の捕縛を狙っていたことから、45節 「なぜあの人を連れて来なかったのか」の詰問は当然。
続くやり取りは、46~49節 「下役たちは答えた。『 これまで、あの人のように話した人はいませんでした。 』 そこで、パリサイ人たちは答えた。『 おまえたちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。 』 」とある。ここにニコデモが知恵深く登場する。
50、51節 「彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。『 私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。 』 」と。
主が、ヨセフを主の埋葬の為にと選ばれた、主の選びとは ? ヨセフは、既に、イザヤ章 53章9節で預言されていた。
① ヨセフにしてもニコデモにしても、世的には申し分のない、高位高官の立場【マタイ 27章57節では「金持ち」、マルコ 15章43節 「有力な議員」】にあったが、決してそこに安住出来ずに、安住せずに、ルカ 23章51節 「神の国を待ち望んでいた」人だったことにある。
同じ議員の一人だったあの 《 若き役人 》 は、自らの欠如を知る点は別としても( ルカ 18・22 )、一般的議員。しかし彼らとは対照的だったのが、ヨハネ 3章2節 「私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています・・・」と、主を神と認めざるを得なくされていた二人。
主の許を悲しみながら去った若き役人は、自ら命を欠くとの自覚があったからこそ、主に「永遠のいのち」を求めた筈。ところが試された時、彼はこの富にしがみついた。主はこの世にあって霊的渇望を持つ者に目を留められるお方。
② 立場が立場であっただけに、信仰告白の至難さはあっても、彼らの霊的渇望は、単なる妥協によってではなく、その都度の真剣な主に向かう姿勢、ルカ 23章50節 「善良で正しい人」、即ち、主の聖前における正しい関係で生きる者であったところに。
そこには虚偽がない。彼らは、弟子であることを隠していたとは言え、偽って主を否定する態度でいた訳ではない。その生き方において、51節 「議員たち・・・には同意」せず、ニコデモに見たように毅然と発言する態度において真実だった。主の聖前での正しさに従って闘っていた。
③ マルコ 15章43節 詳訳 「結果を恐れずに、勇気を出して【敢えて・・・困難な状況や心理的抵抗を押して物事を行う様。そうするだけの価値があるものとして行う】」と、告白すべき導きを得た時には、明け渡す者であったところに。
※ 逸( はや )る肉的熱心で最高法院から追放される事態を招かずに、主を求めつつ議員の立場に留まって居たからこそ、ピラトと対等に、願い出られたのでは ? いつでも信仰は 《 主との関係が如何に忠実であるか 》 に心したい。
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