聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 106


ルカの福音書23章44節~49節

先週私たちは、ゴルゴダにお着きになられるや、直ちに処刑に服された主に思いを寄せた。主がこの地上に来られて初めて身を横たえられた場所は、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶、その日以来「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところも・・・ ルカ 9章58節」なく、地上最後に身を横たえられた場所が、十字架の上だった主に。
戦慄が走る場面で発せられたおことばが、「そのとき」と、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは・・・何をしているのかが分かっていない」と発せられたこの祈りに注目した。

ⅰ 主は 《 民の執り成し手 》 大祭司としての資格を持って、聖父の聖前に大胆に出られた祈り。
実に、主の処刑のこの日こそ、大祭司が年に一回、会見の天幕の前で屠( ほふ )られた小羊の血を携え、聖所から隔ての幕を通って至聖所に入り、契約の箱の恵みの座に注ぎ、民の罪の赦しを求めた贖( あがな )いの日。小羊の血ならぬ 《 流しておられるご自身の血をもって 》 捧げられた執り成しの祈り。

ⅱ 神の子たちへの 《 この生き方への招き、宣教の鍵 》 の祈り。
主のこの祈りは、共に処刑された一人の犯罪人を悔い改めに、47節 「百人隊長」を救いに導いた。
更に、初代教会最初の殉教者で聖霊に満たされたステパノは主のこの祈りを捧げる人と変えられていた人物。使徒 7章54~60節の彼の殉教現場で、迫害者パウロも又、後日まばゆいばかりの彼の祈りに捕らえられ、殉教者としての生涯に導き入れられた。

※ 主のこの祈り故に救われたお互いも又、この生き方を、と。


今朝私たちは、主が十字架上で成し遂げなければならなかった地上最期の聖務の場に臨む。
マルコには主の処刑が「午前九時であった。 15章25節」と言及されており、ルカ 23章44節 「さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた」とあることから、十字架上におけるご聖務は、六時間に及ぶものだったことが分かる。
主が、この日に向けて成し遂げて来られたご奉仕の真価と有効性は、このご生涯最期の六時間の主の在り方如何にかかっていた。それは、仮に、今日までのご奉仕が完璧だったとしても、息を引き取られるその瞬間まで、聖父の御心を完全に満たす無傷の小羊として自らを捧げ尽さなければならなかったからである。しかも主の最期の戦いであることを知っているサタンの挑戦は、より巧みで執拗であることから、極度の緊張感を必要としておられる聖務である。
へブル人への手紙 5章7~9節 「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり」とあるように、地上生涯どの場面での経験より、この最期での経験程、強烈に感じられたことはなかったのでは ?
神の御子であられながら「肉体をもって生き」る人の子としての弱さは、断末魔の苦しみという極限状態に於いてこそ、試されるからである。

cf. プリント【十字架上の七言①~⑦】は、十字架上での主のご聖務のご様子を知る重要な手掛かりであり、聖霊はこのおことばを明記することによって、人の子となられた主が 《 完全に聖父の御心・人類の贖いを成し遂げられたこと 》 を知らせている。
これらの七つのおことばの頂点は、46節 「イエスは大声で叫ばれた。『 父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。 』 こう言って、息を引き取られた」である。何故このおことばが、頂点なのか ? それは聖父の御心を完全に成し遂げた 《 勝利宣言 》 だから。
主はこのおことばを 《 十二時頃から三時間、全地が真っ暗闇に包まれての最期の午後三時 》 息を引き取られる直前に「大声で叫ばれた」勝利宣言なのだ。
主が先ず、闇のベールが恐ろしく全地を覆った時に、④マタイ 27章46節 「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『 エリ、エリ、レマ、サバクタニ。 』 これは、『 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか 』 」と叫ばれた叫びは、聖父から完全に捨てられた瞬間である。
父なる神とは、これまでずっと「父よ」と、親しくお呼び出来る関係にあった主。ところが、この時ばかりは最早「父」ではなく、罪を容赦なく徹底的に裁く厳格な神、近付くことなど決して許されない神でしかなくなったのだ。
ゲツセマネで、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 マタイ 26章39節」と祈って求められたのは、この恐怖、親しい父から捨てられることへの恐怖からだったが、現実、今味わわれた。

しかしあのゲツセマネでは、未だ、「父よ」とお呼びすることが出来、近付き難いお方としての神ではなかった。
ところが今、主にとっては、「わが神、わが神」としてしかお呼び出来ない、聖父との親交は断たれ、呪われた罪人として出なければならなくされた。その恐ろしさの現れは、⑤ヨハネ 19章28節 「わたしは渇く」なのだ。贅沢に遊び暮らしていた金持ちが、門前に居ても顧みなかったラザロを遣わしてくれるようにと言った記事【ルカ 16章24節 「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません」】とある 《 苦しみ悶( もだ )える 》 恵みからの絶縁状態。
人類の 《 罪の報酬としての死 》 を、代わって壮絶な苦悩を味わわれた時、主は、⑥ヨハネ 19章30節 「完了した」、全てが終わったと言うことが出来た。その時の最期のおことばが、⑦「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」だった。
初めに、勝利宣言だったと言ったが、「わが神」ではなく、もう一度「父よ」と、何一つ距離感もなく、かつて持っておられた関係でお呼びすることが出来るようになられたから。
あくまでも 《 見捨てられたのは人類に代わっての死に過ぎず、わたしと聖父とは、決して断ち切られることのない絶対的愛による信頼関係にあるとの告白 》 で閉じられたからだ。

※ 拒絶されたのでは ? と感じられた時、主が地獄の苦悩から聖父の愛を信頼し抜いた信仰に倣って、信頼し続けたい。

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