元旦礼拝


マタイの福音書16章21節~28節

新年の冒頭、終末に生きるキリスト者として、私たちの日々自覚すべきことは何なのか ? に耳を傾けたい。
今朝の聖句の21節には、「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」とあるが、私たちは 『 ルカの福音書 』 によって、既に、主がゴルゴダの丘に処刑された場面まで辿り着かせて頂いた。
死刑囚が自らの処刑具をかついで処刑場に上る中、衰弱し切った主には処刑具の重さは耐え切れずに倒れ崩れながらも、極みまで罪人の行方をのみ気遣い、更には処刑されるや、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのかが分かっていないのです」と叫ばれる主に近づかせて頂いて来た。インマヌエル讃美歌 591番 「主はいのちを与えませり、主は血潮を流しませり。その贖( あがな )いにて我は生きぬ。我何をなして主に報いし」と歌っているが、その応えは、今朝の聖句、24節 「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」との招きに応じることをもってしかない。
この招きのおことばを、私たちは何度学んで来たことか !! 肝心なことは、字句の意味を知ることに意義があるのではなく、主のこの招きが自分の生き方にどれだけ反映されているか ? にある。先ず意味を正確に知ることが必要であるが、知った主のこのおことばに、私の内心はどう反応するか ? の正直で真面目な吟味がなければ学ぶ価値はない。その為に、24節の理解を確認したい。

① 「それからイエスは弟子たちに言われた」おことば。

この「それから」とは、23節 「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とペテロを叱責されてからのこと。主は公生涯の半ばから十二弟子を選出して、福音宣教を担う器の育成に力を入れられたが、このペテロは、17章1節 「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と、12人の中から絞られてより主に近くに呼ばれ、特別な訓練に与った三人の中の一人であり、側近中の側近である。彼らは後に、ペンテコステによって誕生する教会の建設に当たって、重要な役割を担うべく備えられる必要があったからである。
期待が寄せられたのは当然である。ペテロも主の期待に沿って、主から ※ 16章15節 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねられた時、16節 「あなたは生ける神の子キリスト」ですと答え、17~19節では「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです・・・」と、主から言われた。
ところがその直後、主は、彼の信仰を確認して、21節 「そのときから」と、ご自身のご受難について吐露されるが、彼は試されることになった。
何と彼は、22節 「イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。『 主よ、とんでもないこと・・・ 』 」と非難して 《 内面に巣食っている腐敗した罪性 》 が暴かれることになった。

主の姿勢は明白 !! 仮に主が彼をどれ程期待し、心血を注いでおられたとしても、ペテロが彼の個人的な同情心から主に苦難を避けさせ、主を、23節b’ 「つまずかせ【妨害、罠】」、聖父の御心に背かせる存在となるならば、主は、「下がれ、サタン」と退けるお方。
ペテロの内的罪の腐敗性について、主は ※ 23節c 「神のこと【神的性質】を思わないで、人のこと【人間的性質・神の性質とは相容れない肉】を思っている」と言われた点にある。ペテロにとって、主の言う惨めな死は、恥辱、立身出世が叶わない失望を意味し、こんなことだけは絶対に聞きたくない、受け入れたくないとする野心がある。
※ 24節 「それから」とは、主の期待を裏切るペテロの実態を見せ付けられてから、ということである。 “ つい先には、「あなたは生ける神のキリスト」だと告白したあなたが・・・ そして、18、19節 「そこで、わたしもあなたに言います・・・」と、贖( あがな )い後に託すべく備えられている教会の権威について宣言したばかり ” だった。 “ その後、信頼したからこそ、受難について吐露したのだが・・・ ” である。

② しかしペテロに、「下がれ、サタン」と言わざるを得なくされた主は、その悲しみに妨げられずに、大胆な宣言をなさったのが、このおことば。

何と !! 毅然と、「だれでもわたしについて来たいと思うなら・・・」と仰る信仰 !! ペテロを何としても手放すまいとする個人的願いは一切なく、弟子たちの自主性に委( ゆだ )ねる明け渡し !!
主はご自身に従うことを強要はなさらない。何故なら従うという行為は、詩篇 40篇8節 「わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは 私の心のうちにあります」とあるように、喜んで従うのでなければ無意味、無価値、従うことにはならないから。
従うという行為は、25節、従う者の永遠を決定することだと、弟子たちのいのちの為の招きなのだ。

③ 自主性を持って従う、弟子としての条件を明らかにされたおことば。

a. 「自分を捨て」ること ⇒ ペテロは自らの為に抱いた肉的野心、成功、栄誉心を求めようと思えば、その選択もある。しかし真理は、それを得ようとする者には獲得ではなく永遠の喪失。それを神の御心とは相反するものと分かった時には、潔くそれを放棄すること。忌み嫌うこと。
b. 「自分の十字架を負」うこと ⇒ 内に発見させられた 《 神の御心に反する 》 肉的なものを罪と認めて告白し、主と共に十字架につけて死に至らしめ、新しい性質に変えられ続けること。
ルカ 9章23節 「日々自分の十字架を負って」とある。

※ 主は、全ご生涯、聖父の御心に適わないものは全て退け、聖父の御心に従わせて生きることを喜びとされた。私たちも今年、主に倣う弟子として日々従う者でありたい。

この記事へのコメント