聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 105


ルカの福音書23章32節~43節

先週のクリスマス記念礼拝では、処刑場に向かう主について来る、27節 「嘆き悲しむ女たち」に、28節 「わたしのために泣いてはいけません」と、血を滴らせながらも渾身の力を振り絞って彼らの誤りを正された主のみ思いに学んだ。

ⅰ 28、「わたしのために泣いてはいけません」とは ?
主ご自身への受難に同情すべきではないの意。嘆く声を黙って聞いていることが出来なかったからであり、とことん魂の永遠を気遣って追い掛ける羊飼いの心である。 ゴルゴダに向かわれる主のご受難が【私たちの病、背き、咎( とが )】故だったと分かれば、主への同情心から感傷的になっては居られない恐れに見舞われる筈だから。

ⅱ 28節c 「むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」と言われ、自分自身の罪の事実と罪への容赦なき裁きに「泣きなさい」と主は言われる。
29~31節で、厳粛な裁きの日について、主は予告された。その時の人々の叫びについての30節は、復活の主によって ※ 黙示録6章12~17節 「・・・私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ・・・」の聖句でも明らかにされた。その苦難の時、29節の説明のように、ユダヤ人の風習から蔑まれていた女性たちはむしろ、苦しむ子どもたちを目の前にしなくて済むということで羨( うらや )ましがられるだろうとも。

※ 主の「自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」とある 《 罪の事実を認めて聖前に悔い改めよ 》 に従い、心から悔いて流す涙をもって感謝の涙としたい、と。


今朝私たちは、ゴルゴダへの道を 《 倒れ崩れるみ体を起こされては、涙して悲しむ人々を正しつつ 》 上られた主が、遂に処刑に服された場面に目を向けなければならない。
処刑場に着くや否や、兵士たちは容赦なく、33節 「そこで彼らはイエスを十字架につけた」とあり、この時の様子については、詩篇 22篇の預言によって知らされている。その1節は、cf. プリント【十字架上の七言】4番目のおことばであるが、6~18節 「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑みの的です。私を見る者はみな、私を嘲( あざけ )ります。口をとがらせ、頭を振ります。『 主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。 』 ・・・彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします」と、実に主のこと。
主が処刑されたこの場が、「どくろ」と呼ばれるのは、その名の如き場所だからだ。血生臭い場所で、処刑された受刑者たちの頭蓋骨が散乱しているからなのでは ?
主がこの地上に初めて身を横たえられた場所は、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶。この処刑場のような呪いの場所では勿論ないが、出産の場所としては衛生上適していたとは言えない。しかし御使いは、「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。 ルカ2章12節」と言ったが、主の「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。 ルカ9章58節」を象徴。主の地上最後に身を横たえられた場所が「どくろ」で、十字架の上 !!
又しても、ぬくぬくと安泰であることを求める私たちの生ぬるさに光が当てられて、心刺される光景であるが、こうしたあしらわれ方こそが、御使いの言う救い主たるお方の「しるし」であり、 《 全ご生涯における全場面を象徴する光景 》 なのだ。
驚くべきことは、34節 「そのとき、イエスはこう言われた」と、このような戦慄が走る場面で発せられたおことばが、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」だったことにである !! まさか !! 誰も !! 処刑された人から聞かされる言葉だとは考えも及ばない、耳を疑う言葉が主の御口から発せられた !!

主のこのおことばを考えてみよう !!

① 主は 《 民の執り成し手 》 大祭司としての資格を持って、聖父の聖前に大胆に出られた祈り。

実に、主が処刑されたこの日こそ、大祭司が年に一回( へブル 9・7 )会見の天幕の前で屠( ほふ )られた小羊の血を携えて、聖所から会見の天幕をくぐって至聖所に入り、契約の箱の恵みの座に注ぎ、民の罪の赦しを求めていた贖( あがな )いの日。
へブル 9章11、12節 「キリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、・・・永遠の贖いを成し遂げられました」と。この実現の為に、同 5章7~10節 「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かて、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ・・・完全な者とされ・・・大祭司と呼ばれました」とある。
主が「父よ、彼らをお赦しください」と祈れば、聖父は、御子の完全な無傷の供え物に免じて赦されるとの、体を張っての確信によって大胆に出て下さった執り成しの祈りだった。
コリント人への手紙 第一 13章5節 「自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず・・・」との全き愛によって、罪人の言動の全てを、「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と致命的欠陥を知って祈られた。

② 神の子たちに対する 《 この生き方への招き 》 の祈り。

主のこの祈りは、共に処刑された一人の犯罪人に、40~43節 「・・・ 『 ・・・おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。 』 そして言った。『 イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。 』 」と悔い改めに導いた。処刑された時には、主を嘲っていたのだが。
又、47節 「百人隊長」においても然り !!
初代教会最初の殉教者ステパノは、聖霊の愛に満たされて、主のこの祈りを捧げる人と変えられていた。使徒の働き 7章54~60節の殉教の現場でのこと、そこに居合わせた迫害者パウロも又、後日、まばゆいばかりの彼の祈りに捕らえられ、殉教者としての生涯に導き入れられた。ここにこそ、宣教の鍵があるからだ。

※ 今年最後の礼拝の朝、主のこの祈りの故に救われたお互いも又、この生き方に招かれているとの自覚を持って新年を !!

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