ルカの福音書2章8節~20節
主のご降誕を記念するクリスマスをご一緒にお迎えするこの夕べのひと時を感謝したいと思います。ようこそお出掛けくださいました。
今晩は一つのことに思いを馳せて頂きたい。
私たち全人類を宇宙の中の一つの星、自然に恵まれた地球( 近年に至っては地球が疲れていると言われるようになり、人類の生存を脅かす環境問題が発生している )に置いて下さった創造主である神が、宇宙という果てしない無限の神秘的空間に幾つもの巨大な星を創造され、今も秩序を保ちつつ「その力あるみことばによって万物を保っておられ・・・ へブル 1章3節」畏敬をもって礼拝されるべきお方、神が、最も関心を寄せておられるところとは、何処に ? ということに。
そしてあえて申し上げたい、実は神の本質的な偉大さを何処に ? 私たちは見るべきかという問い掛けでもある。
と同時に私たちは、日頃、何に関心を抱き、何をもって偉大だとし、優秀だとして称賛する者かと自問自答したい。
聖書全巻を通して知る真理であるが、『 ルカ 2章8~20節 』 からその答えを見てみたい。この記事は、イエスの誕生が告げられた時のもの。
告げられたメッセージは、10、11節 「御使いは彼らに言った。『 恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 』 」だった。告げられたメッセージは、「恐れることはありません」とあるように、聞く人々の誰もがそう簡単に理解できるような次元のものではないからでしょう、しかし人類にとって最も必要としていた、願ってもない出来事についてだった。
このニュースが、ユダヤ人に対してあったことについては、納得のいくところ。ユダヤ人は、かつて神がアブラハムに「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。 創世記 12章1~3節」と言われた 《 選ばれた民族 》 だからであり、救い主誕生について長年に亘( わた )って預言され続け、救い主誕生を待ち望む民族だったからである。
待望し続けて来た比類なきメッセージを、眩( まばゆ )いばかりの栄光輝く中で、初めに受け取った人々が、8節 「羊飼い」だったこと。当時の指導的立場に君臨していた人々ではなかった。
むしろ社会的には卑しい仕事と見做されていた羊飼いだったが、このメッセージが伝えられた時には、15、16節 「羊飼いたちは話し合った。『 さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。 』 そして急いで行って・・・捜し当てた」とあるように、謙虚に受け止められる人々だった。何という素直さが !! 理屈をこねて、議論する人々ではなかった。その当時、宗教的指導者たちが存在してはいたが、後、主が「偽善の律法学者、パリサイ人」と呼び 《 杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦、偽善と不法で満ちている。白く塗った墓。やもめを食い物にしている 》 と嘆かれた人々。
何故 ? 当時の大金持ち階層にあった指導者、富裕層にではなかったのか ? ローマ人への手紙 1章28節 「彼らは神を知ることに価値を認めなかった」人々、物質的豊かさに価値を見出し、成功志向に身を置き、ひたすら人々からの称賛を求めているならば、御使いのメッセージが届かないからだ。彼らとは真逆の境遇に在る羊飼いは、こうした世の傾向性には馴染まず、それもその筈、人は物質をもってしては満たされないように造られているからであり、いよいよ関心は心の必要にと向かう人々だったから。世はこのような人々を、情けない、もっと楽しめば良いではないか !! もっと努力すれば・・・とけしかける。しかし神の目は、この世的な価値観では飽き足らず、内的渇望に正直に向き合う人々に向けられている。
神はそこに何を届けて下さる為だったのか ?
11、12節 「この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです」と、彼らが最も必要としていた 《 救い主キリスト、罪から私たちを救う救い主 》 を。『 飼葉桶に 』 とは、人類の救いの為に屈辱的な扱いをお受けになる生涯の象徴である。
しかしそれこそ、救いがもたらされる徴( しるし )だと。
主の誕生地ベツレヘム、主の母マリアの素性の貧しさも合わせて、主の目はここに価値を見出させたお方。
※ 最も低くされたところに目を留められることこそ、真の偉大さ !!
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