クリスマス記念礼拝 『ルカの福音書』 より 104


ルカの福音書23章27節~31節

先週は、主の死刑を叫ぶ最高法院に屈服したピラトが、遂に主を死刑執行人に引き渡し、処刑場に引かせる場面に注目。
道のりとしては、数百メートルではあるが、前日からの鞭による拷問が主の肉体を衰弱させ、死刑囚が背負わされる十字架の重さに耐えられず、その途中から「田舎から出て来たシモンというクレネ人」が主に代わったという状況である。
ここで、注目したのは、他の福音書で彼が、「無理やり背負わ」されて抵抗した人として出て来たところにである。
主に代わって十字架を背負うことに抵抗したシモンだったが、その彼が永遠的祝福に与ったことをもって激励とした。
マルコは、「アレクサンドロとルフォスの父」と、諸教会にその名を知られるキリスト者となっていたと伝えており、「ルフォス」は、ローマ人への手紙 16章13節 「主にあって選ばれた人」、又、「彼と私の母」とあるのは、十字架を背負ったシモンの妻であり、パウロに献身的に仕えた人物として出て来ているのだから。「十字架を無理やり背負わ」されたシモンとその家族は、何という恵み !! 救いに与ったのだ !!
シモンは、直接主のみ顔を拝し、十字架上での主のおことばにも触れて、主に立ち返ったのだろう !! 彼は後、担うまいと抵抗したあの十字架は、本来自分が背負うべき十字架だったことを知って愕然としたに違いない。無知の故に、抵抗したことを悔いたのだろう。本来、どれ程の屈辱を受けることがあったとしても、当然だとする信仰で主に感謝しつつ、買って出るべきだったとして、信仰を新たにしたに違いない。

※ へブル 13章11~16節 「ですから私たちは・・・」に従いたいと。


今朝は、処刑場に向かう主の後からついて行った、十字架を背負うシモンだけではなく、27節 「民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして」従って行った人々に、ご自身心身ともに力尽きておられる中から振り向いて語られた主の 《 重要なおことば 》 に注目したい。
28節 「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」と慈しみ深く、しかし「いけません」と言われたおことばに。どう考えても、このことばには単なる優しさではなく、主の叱責とも窺( うかが )える厳粛さがあると見て学びたい。
従って、今朝 《 クリスマスを記念して礼拝 》 を捧げている全世界の、私たち全ての人々に対する警鐘が鳴り響いているメッセージであると。

① 28、「わたしのために泣いてはいけません」とは ?

主はこのおことばを、27節 「イエスのことを嘆き悲しむ女たち」に向けられた。血を滴らせる主は渾身の力をふりしぼって、ご自身に同情を寄せて嘆いている人々の涙を歓迎せずに、むしろ「泣いてはいけません」と退けられた。ここにも、35節で、主に向かって揶揄する人々の声が。「民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。『 あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。 』 」で証言された 《 主の生き様の証 》、主に反抗して止まない人々でさえも認めざるを得なくされた主の「他人を救った」という生き様の証を見る。
主は、ご自身のご受難に同情して嘆く嘆きを、黙って聞いていることが出来なかったからである。何という !! とことん魂の永遠を気遣って追い掛ける羊飼いであることか !!
確かに主は、聖父から 《 人類の罪への怒りを一手に引き受けることによって 》 呪われ捨てられることへの恐怖故に、「この杯をわたしから取り去ってください」と祈られたのではあるが、人類の救いの為の最後の試みに勝利されて、羊の為に極みまで心を砕かれたのだ。
主への感傷的にむせび泣く涙を、主は退けられる。
宗教的芸術が、私たちを主への感傷的な涙に誘うにすぎないのであれば、仮にそこに荘厳さ、感情的高まりがあったとしても、ゴルゴダに向かわれる主は退けられる。
主はペテロの手にした剣の一振りによって助けられなければならない惨めな方ではない。その時にですら助けを求めるならば叶うが、それをあえてしなかった救い主だから。
そもそも、ゴルゴダに向かわれる主のご受難が何の為だったのかを考えれば、感傷に浸っている場合ではないから。
イザヤ書 53章4節 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと」と思っている限り、私たちは感傷的な域から抜け出すことは出来ない。が、5、6節 「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎( とが )のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。・・・しかし、主は・・・彼に負わせた」と分かると事態は変わる。

② そこで主は、28節c 「むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」と言われた。

即ち、イザヤ書 53章の預言に従って、ゴルゴダに向かわれる主のその無残なお姿が 《 私たちの病、背き、咎 》 故だったと分かったならば、感傷的な思いに浸っては居られないという恐れに見舞われる筈だから、私たち自らの罪の事実と罪への容赦なき裁きに「泣きなさい」と主は言われる。
29~31節で、厳粛な裁きの日について、主は予告された。
明らかに、その裁きとは、31、「生木にこのようなことが行われるなら・・・」と、ご自身への、人類の罪への聖父の怒りを十字架上で明らかにされるように、自らの罪の事実を認めて悔い改めないならば、その「枯れ木」に対する神の怒りは如何ほどであろうか !!
その時の人々の叫びについての30節は、復活の主によって ※ 黙示録 6章12~17節 「・・・私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。・・・」の聖句でも明らかにされた。
その苦難の時、29節の説明のように、ユダヤ人の風習から蔑まれていた女性たちはむしろ、苦しむ子どもたちを目の前にしなくて済むということで羨( うらや )ましがられるだろうとも。
主の言われた「自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」とは、主のご受難に自らが受けるべき罪への呪いを見て 《 罪の事実を認めて、聖前に悔い改めよ 》 である。

※ 心から悔いて流す涙を通して、感謝の涙としたい。

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