聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 102


《 待降節Ⅱ 》
ルカの福音書23章1節~25節

先週は、主のゲッセマネの園での捕縛後、主が受けられた拷問の全てについて、へブル 12章2~4節 「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍」ばれ、イザヤ 53章11節 「自分のたましいの激しい苦しみ・・・」の故だったと伝えている聖句と重ねて考えた。
主の「たましいの激しい苦しみ」だったとは !! エレミヤ 31章20節の伝える 《 屈辱を加える者、嘲( あざけ )る者の末路を痛み、彼らの魂の現実を思って、激しく苦しむ苦しみ 》 なのだ !!
主は、拷問の鞭と辱め、又、66節以下のエルサレムの最高議会における裁判での尋問を受けられるその都度、彼らをそうさせている反逆心、彼らの内なる闇に激しく痛まれた。
主は、彼らの詰問にむやみに応えられず、ご自身の立場を明確にすることに専念され、69節 「だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます」と、責任ある証言をされた。
案の定、主の証言は指導者たちの怒りを引き出し、70節 「では、おまえは神の子なのか」と詰め寄らせたが、更に主は、70節b 「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と宣言された。指導者たちは、71節 「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と 《 主を冒涜罪で訴えるべく 》、遂に、23章1節 「イエスをピラトのもとに連れて行った」とあるように、主はローマの法廷に立つことになった。

※ へブル 12章3節 「あなたがたは・・・反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないように」との忠告に従いたい、と。


今朝は、そうした大祭司の家での拷問後、エルサレムの最高法院に連行された主が、遂にローマ法廷の裁きの座に連れて行かれた場面に共に臨むことになる。
その為に、23章12節には「この日、ヘロデとピラトは親しくなった。それまでは互いに敵対していたのである」との動きから、ローマ帝国にとって 《 主をどの様に扱うかという、ユダヤ人から持ち込まれた問題 》 が、簡単に片付けられる問題ではなかった、一大事だったことに注意を払いたい。
ピラトはローマ帝国がパレスチナに駐屯させていた行政長官・総督・官僚。彼は政治的手腕が買われてか、皇帝から直接の責任を担わされ、最高の法的権限を持っていた。
彼は、その権威の下で派遣された初期のこと、聖所でいけにえを捧げているガリラヤ人を殺害するという無残な事件を引き起こしている( 13章1節 )。彼がパレスチナに派遣された当初、四分化されていたパレスチナの一つガリラヤ地方は、ヘロデ・アンティパス( バプテスマのヨハネを殺害 )の管轄下にあった。ピラトの様々な出方から、両者には行政執行権上のトラブルによる敵対関係があったと考えられる。にも拘らず、主を巡っては、総動員で取り組まれることになったのだ。
パウロの裁きの座での弁明の言葉を思い出して頂きたい。
彼が ※ 使徒の働き 26章19~29節でダマスコ途上での劇的経験を証した時に、「・・・このことは片隅で起こった出来事ではありませんから・・・王様がお気づきにならなかったことはない」とアグリッパに迫ったこの言葉は、全ての人々は 《 このお方への責任ある態度が問われている 》 と警告していると !!

① 主を取り囲む人々について。

a. 巧妙に罪状を突き付ける最高法院の全議員たち。
議会は、※ 22章69節、主の「人の子は力ある神の右の座に着きます。」との宣言に激怒し、71節 「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」、マルコ 14章64節では「イエスは死に値する」と言って、死刑を確定した。
しかしローマ法廷では宗教的事項による案件では審議されない為、ローマ政府にとって最も脅威となる政治的告発でと企てた。2節、「わが民を惑わし」、「カエサルに税金を納めることを禁じ」、「自分は王キリストだと言っている」と全て、ローマ帝国への反逆罪に当たるとする 《 主への嫉妬を動機としての 》 殺害計画である。
10節 「イエスを激しく訴え」、18、19節 「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」、21、23節 「十字架につけろ」と叫ぶ。
b. 裁判の最高権威者として立っている総督ピラト。
4節 「訴える理由が何も見つからない」としつつも、5節の議員たちからの反論にひるみ、6、7節 「ヘロデの支配下にあると分かると、イエスをヘロデのところに送っ」て責任回避を図る。13、14節でも、「罪は何も見つからなかった」とし、20節 「イエスを釈放しようと」し、22節 「この人がどんな悪いことをしたというのか。・・・むちで懲らしめたうえで釈放する」としつつも、最終的には、24、25節 「それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。・・・イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた」のだ。
野望と名誉心の故に総督の立場にしがみつくも、総督の執行すべき責任を放棄し、最も不正で悪質な判定を下した。
c. ガリラヤの国主ヘロデ・アンティパス。
9節 「いろいろと質問した」とは、8節 「イエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたから」と、悪質な好奇心による質問攻め。その好奇心が満たされなかった時には、11節に見る主への野蛮な反逆心を露わにした。

② 自らの野望に生きる人々からの裁きを受けている主は、毅然たる態度で、イザヤ書 53章11節 「自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足」されるお方。

議員たちからの ※ 2節の偽証にも、10節の訴えにも、18節 「その男を殺せ」にも、21節の「十字架につけろ」にも、23節の「その声がいよいよ強くなっていった」ことにも、主は何一つ、動ずることなく、為されるがままに。
ピラトからの ※ 3節の問い掛けにも、誠実に答えられた ⇒ ヨハネ 18章33~38節。ヘロデの質問には、9節 「何もお答えになら」ず、彼の不真面目で、単なる個人的好奇心を満足させるだけのものとの洞察による賢明な対応を。ヘロデと兵士たちからの ※ 11節 「侮辱・・・」にも、動ずることなく、冷静沈着に。あくまでも、彼らを憐れむのみ !!

※ 私たちは、主に対してどのような態度を取るのか ? マタイの25章31~33節は、人に対する扱いをもって主への扱いの如何が裁かれる光景。責任を問われる事実に留意したい。

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