聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 101


《 待降節Ⅰ 》
ルカの福音書22章63節~71節

先週は、主が、聖父からの呪いを意味する ※ 42節 「杯」を、「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。 ヨハネ 18章11節」と告白して葛藤から勝利して立ち上がられるや、47節からのユダを迎えた時の場面に注目した。
主のお気持ちは唯、裏切るユダへの愛を極限まで注ぎ、 “ ユダ、あなたは本当にそれで良いのか ” と反省を促す情熱のみ。
しかし主の極みまでの愛はユダにだけでなく、もう一人の裏切者、33節 「あなたとご一緒なら・・・」と言ったペテロにも。
そのペテロは何と !! 悲しい54~60節の 《 三度主を否む 》 正体を見なければならなくされることに。ところが、61節 「【すると】主は振り向いてペテロを見つめられた」とある !!
ここで、主の極限まで注がれたユダとペテロへの愛は同じだったにも拘らず、注がれた側には、極めて厳粛な生死を分かつ結末があったことについて考えた。
ユダの結末については、マタイ 27章3~10節に言及される死・破滅・暗黒が。しかしペテロの結末は、やがて殉教者に。
彼らの生死を分かつことになった決め手は、61、62節 「・・・主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく【非常な悲しみに襲われて】泣いた」この出方にある。
私たちは、ユダ的 ? ペテロ的 ? 主は、ご自身への損失を数えずに、主の聖前で気付かされた自らの貧しい実際に 《 激しく泣く 》 者を完全に救うことが出来るお方なのだ。

※ 自らの過ちそのものを悔やむことに終始するならば、ユダ的結末を迎えるのみ。しかし、過ちの現実に痛み、悲しんで十字架に駆け込むならば、殉教者とされたペテロに同じだと。


今朝は、ゲツセマネの園での捕縛後、22章63節から見なければならない寝ずの尋問を浴びせ掛けられる主に近づく為に、へブル 12章2~4節 「・・・イエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです」の勧めに従いたい。
聖霊が、迫害下にあって苦しみ、あわや背教し兼ねない信仰者を激励すべく、 《 受けられた辱めをものともしなかった主を凝視するように 》 と勧めている聖句である。
主は、ここで受けられる屈辱の全てを、「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍」ばれたと、聖霊は伝えている。このことは、預言者イザヤを通しても、「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。 53章11節」と伝えているところである。
イザヤは、「自分のたましいの激しい苦しみ」と言っているが、ルカに戻ると、63節には「イエスをからかい、むちでたたいた」とあり、主が受けられた仕打ちは肉体的拷問に及ぶ激しさであるにも拘らず、ここで触れられているのは「自分のたましいの激しい苦しみ」だと !!
私たちが「辱めをものともしなかった」主を凝視すべきところとは、この「たましいの苦しみ」なのだ。

自問自答したい。今日私たちがもし、何らかの苦しみという経験、苦しいとしていることがあるとしたなら、一体何をもって苦しいと言っているのだろうか ? 果たして、主の経験しておられる苦しみに同様なのだろうか ? もし、被害者的意識 ? 自己憐憫的傾向にあるならば、到底主の経験しておられる苦しみとは似ても似つかない。
主の「たましいの激しい苦しみ」とは ? エレミヤ書 31章20節 リビングバイブル訳 「エフライムは今でもわたしの子だ。目に入れても痛くない子であることに、変わりはない。罰を加えないわけにはいかないが、それでもなお、彼を愛している」、20節e 「それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき( 戦慄する )、わたしは彼をあわれまずにはいられない」とあるように、屈辱を加える者、嘲( あざけ )る者の末路を痛み、彼らの魂の現実を思って、激しく苦しむ苦しみなのだ !!
主を夜通し監視していた者たちのしたことに目を向けると、ルカ 22章63~65節 「イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして、『 当ててみろ、おまえを打ったのはだれだ 』 と聞いた。また、ほかにも多くの冒涜のことばをイエスに浴びせた」。マタイ、マルコでもそうだが、マルコ 14章65節によると、「唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、『 当ててみろ 』 と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った」とあり、彼らの素手で為し得る限りのことをしたのだ。
主は、これら全てを受ける度に、彼らをそうさせている主への反逆心、彼らの内なる闇に激しく痛まれるのだ。

私たちの誰が、そのような彼らの闇を憐れんで激しく痛まれる主を知る者だろうか ? 憎しみの限りを尽くす彼らへの愛を知る者だろうか ? 私たちは、このような状況での隣人への思いが、果たして主に同じだろうか ?
更に、夜明けと同時に、66節以下、エルサレムの最高法院 ※ サンヘドリン、宗教のみならず司法を取り扱う最高議会に連れ出され、67節 「おまえがキリストなら、そうだと言え。」と苛立ちを露わにしての詰問攻め。
ところが主は、彼らの詰問には直に応じなかった。
言うまでもなく、ペテロが、自らの命を惜しんで回避した態度とは対照的で、答えることの無意味さの故にむしろ、ご自身の立場を明確にされ、69節 「だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます」と、責任ある証言をされた。
案の定、この証言は指導者たちの怒りを引き出し、彼らは激怒して、70節 「では、おまえは神の子なのか。」と詰め寄った。その時更に、70節b 「イエスは彼らに答えられた。『 あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。 』 」と宣言された。指導者たちは、71節 「・・・これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と 《 主を冒涜罪で訴えるべく 》 遂に、23章1節 「イエスをピラトのもとに連れて行った」と、ローマの法廷に持ち込むことに。

※ へブルの聖句を覚えよう !! 12章3節 「あなたがたは・・・このような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないように」に注意を払いたい。

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