2018年12月28日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 100


ルカの福音書22章47節〜62節

先週は、主が最後の晩餐から立ち上がられて後、ゲツセマネの園に退き、44節 「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた」、人の子として経験された極限状態の苦悩に注目した。

@ 主の苦悩は、殉教者の苦悩ではなく贖罪者の苦悩 !!
殉教者とは、自らの個人的犯罪の故に処刑された人々では勿論ない。むしろ、初代教会のステパノのように、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。 使徒 7章60節」と迫害者の為に祈りつつ、息を引き取った人々。とは言え、神の聖前においては皆、赦されるべき罪人として、自らの罪を認めて悔い改め、生涯的方向転換をした人々だった。
ところがイザヤ書 53章を見ると 《 主が、単なる殉教者ではなく贖罪者だった 》 即ち、本来裁かれる必要のないお方が裁かれるお方となられたとあり、死とは無縁のお方が。

A 主の苦悩は、殉教者の苦悩とは根本的に違う !!
殉教者にあるのは激励のみで、神から捨てられる恐怖はない。しかし主は、耐え難い恐怖に襲われ、怯( おび )えたのだ。主が飲み干すことによって受けることになる 《 神の呪い、神に捨てられるという恐怖 》 を。

B しかし主の苦悩は、捨てられる恐怖に勝利された !!
「この杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」との告白によって、人類への贖( あがな )いを計画された聖父のご意思に、自らのご意思を完全に従わせ、勝利を取られた。この時以来、毅然と十字架に向かわれた。

※ キリスト者の勝利も、42節 「しかし、わたしの願いではなく、みこころが」との、この明け渡しにあり、主に倣いたいと。


今朝は、主が聖父から呪われることを意味する ※ 42節 「この杯」を、「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。 ヨハネ 18章11節」と、葛藤から勝利して立ち上がられるや否や、47節、ユダを「先頭に」やって来た群衆を迎えられた場面に注目したい。
この場面で、先ず私たちは、47c、48節 「ユダはイエスに口づけしようとして近づいた。しかし、イエスは彼に言われた。『 ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか。 』 」と仰った主のお心はどの様だっただろうと、胸が熱くなる。
マタイの26章50節 別訳には、「友よ、※ 何のために来たのですか」と。マルコには、14章44、45節 「イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、『 私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ 』 と言っておいた。ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、『 先生 』 と言って口づけした」との言及がある。
何れの記事でも伝えられている主のお気持ちは、唯、裏切ろうと企てているユダへの愛を極限まで、惜しみなく注ごうとの情熱で占められている。 “ あなたは本当にそれで良いのか ” 、敢えて「何のために・・・」と尋ねて反省を促し、 “ 今からでも遅くはない ” との言葉を掛けられる情熱を。
しかし、主がご自身の愛を極みまで注がれたのはユダだけではなかった。もう一人の裏切者となった人物にペテロがいる。
ペテロは、33節 「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と言っていた。

確かにペテロは、本気でそうしようと思っていた。
その証を、49、50節の衝動に見る。「周りにいた者たちは、事の成り行きを見て、『 主よ、剣で切りつけましょうか 』 と言った。そして、そのうちの一人( ペテロ )が大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした」。
ところが、そのペテロも、何と !! 悲しい現実を自らの正体として見なければならなくされることに。
54〜60節で、予期せぬ事態に遭遇することになったのだ。
それは、56、57節 「 『 この人も、イエスと一緒にいました。 』 しかし、ペテロはそれを否定して、『 いや、私はその人を知らない 』 と言った」、58節 「 『 あなたも彼らの仲間だ。 』 しかし、ペテロは 『 いや、違う 』 と言った」、59、60節 「 『 確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。 』 しかしペテロは、『 あなたの言っていることは分からない 』 と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた」と、主が彼に予告された通り 《 主を三度否んだ 》 のだ。
ところが何と !! 61節 「【すると】主は振り向いてペテロを見つめられた」とあるではないか !!
主は、「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか」と声を掛けられたのと同じ情熱をもって、見つめられたのだ。
主から自らの拒絶を予知されて、32節 「あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言われても、気にも留めず、むしろ心配ご無用とはね除ける勢いだったペテロを、主は「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」との期待をもって見つめられたのだ。

ここで考えたい。主の極限まで注がれたユダとペテロへの愛は、同様だったにも拘らず、注がれた側には、極めて厳粛な生死を分かつ結末があったことについて。
ユダの結末については、マタイの27章3〜10節に言及される死・破滅・暗黒が。しかしペテロの結末は、やがて殉教者に。 《 彼らの何が ? 》
生死を分かつ決め手は、61、62節 「主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と言われた主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく【※ 非常な悲しみに襲われて】泣いた」この出方にある。
ペテロは、如何に自分を知らない者、忠告に謙虚ではなく傲慢不遜な者、主を思っても自らの熱意では成し得ない者、結局は自らの身を守る者、十字架の主を恥とし世的価値観を選び主を捨てる者であるか・・・を知らされて、その自らの霊的貧困さを認めて悲しむ悲しみに襲われて泣いた、ここである。
私たちは、ユダ ? ペテロ ? 主はご自身への損失を数えず、主の聖前におけるそれぞれの悲しい現実に気づかされては 《 悲しみに襲われて泣く者 》 を完全に救うことが出来るお方であると覚えたい。

※ あくまでも唯、自らが犯した過ちそのものを悔やむことに終始するならば、ユダ的結末を迎えるのみ。しかし、犯した過ちの現実に痛み、砕かれた悔いる心で十字架の下に来るならば、殉教者とされたペテロに同じと覚えて、謙りたい。

posted by luckyfachan at 05:59| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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