聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 99


ルカの福音書22章39節~46節

先週は、35節で主が、弟子たちにご自身と共にあった生活を振り返らせてから、36節で、「しかし今は」と警告し、37節 「わたしに関わることは実現するのです」という十字架の日を迎えるに当たって 《 ただならない新しい局面に入ると告げられたおことば 》 に注目した。
それは、今後の為に ※ 36節 「・・・を持ち、・・・剣を買いなさい」と伝えることによってであるが、彼らの即刻の反応は、38、「ここに剣が二本あります」だった。弟子たちは主の意図されたことが理解できていたのだろうか ? と考えてみた。
49、50節で大祭司のしもべに切りかかった【ヨハネ 18章10節 「ペテロ」】が、主から ※ 同 11節 「剣をさやに収めなさい・・・」、マタイ 26章52節 「剣を取る者はみな剣で滅びます」と叱責され、主は切り付けられたしもべを癒されたことから、弟子たちが、剣を持つように言われた主の意図を理解していたとは考えられない。

※ こうしたことから二つのことを考えた。
ⅰ 弟子たちは、直訳主義・物質主義という不運な病気にかかっていたと、ラルフ・アールは言っているが、正に然り。みことばの身勝手な悪用には気をつけたい。自らの身を守る為にならば、剣を使って良しとする文化には NO !! と。
ⅱ 実際、主の言われた「剣を買いなさい」、又、弟子たちからの「剣が二本あります」に対して、主が「それで十分」と答えられた意図が分からないとしても、無理に考えようとはせずに、主のご性質から全てを鑑( かんが )みつつ、信頼に生きることに留意したい、と。


今朝は、最後の晩餐から立ち上がられた主が、三人の弟子だけを伴ってオリーブ山のゲツセマネの園に退かれ、十字架を前にして祈られた祈り、44節 「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」という、 《 人の子として経験された極限状態の苦悩 》 に注目を。
人の子として生きて下さった主が、私たち罪人の誰も経験することのない、経験し得なかった、経験する筈もない苦悩を味わわれたという事実に思いを馳せながら、ゲッセマネで祈られた主に近づかせて頂きましょう。

主の苦悩は、殉教者の苦悩ではなく贖罪者の苦悩 !!

殉教者とは、自らの個人的犯罪の故に処刑された人々では勿論ない。むしろ、初代教会における最初の殉教者ステパノのように、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。 使徒 7章60節」と迫害者の為に祈りつつ、息を引き取った人々。とは言え、神の聖前においては皆、赦されなければならない罪人として、人生の何処かで自らの罪を認めて悔い改め、生涯的方向転換をした人々だった。
そのような訳で彼らは、人々に 《 罪を認め、悔い改めて罪の赦しと清めに与るよう、聖霊によって新しい生き方を迫った 》 器たちであり、迫害者を敵とは見做さず、むしろその姿はかつての自分との意識に立っている器たち。
ローマ皇帝の名の下で殉教死を遂げたパウロも又、自らを、「信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例( ※見本 )・・・ テモテ 第一 1章12~16節」でしかないと言っている。
あくまでも自らを罪人と認め、迫害者同様、神に裁かれなければならない存在だとの自覚に立っている人々。
ところがイザヤ書 53章を見ると 《 主が、単なる殉教者ではなく贖罪者だった 》、即ち、本来裁かれる必要のないお方が裁かれるお方となられたとあり、死とは無縁のお方。

主の苦悩は、殉教者の苦悩とは根本的に違う !!

殉教者ステパノには、「神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て・・・ 使徒 7章55節」との主からの激励があり、殉教者パウロも、「みな私を見捨ててしまいました。・・・しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。・・・主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます。 テモテ 第二 4章16~18節」と、あるのは激励のみで、神から捨てられる恐怖はない。しかし主は、耐え難い恐怖に襲われ、怯( おび )えたのだ。
主のゲッセマネにおける初めの祈りは、42節 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください」だった。マタイ、マルコの並行記事では三度こう祈られたとある。しかもマルコには、「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか・・・ 14章36節」と、その願いには切実さがある。取り去って頂きたいと祈られた「杯」には神の呪い、受けるべき 《 人類の罪、人類に死をもたらす恐るべき罪 》 が盛られている。
主が飲み干すことによって受けることになる 《 神の呪い、神に捨てられるという恐怖 》 なのだから。
人類の身代わりを回避されたことはない。弟子たちからの仕打ちを予知する中、「それぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません」と自らを鼓舞されたが( ヨハ 16・32 )、遂に聖父から捨てられるとの現実から逃れられず、神に捨てられるという苦悩なのだ。

しかし主の苦悩は、捨てられる恐怖に勝利された !!

それは、「わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」との告白によってである( マタ 26・42 )。人類の贖( あがな )いを前に、どうしても聖父から捨てられ、呪われるとの現実を、回避する訳にはいかないとの合点である。ゲッセマネの祈りに向かう主の心に、既に始まっていた恐怖ではあった。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『 父よ、この時からわたしをお救いください  』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。 ヨハネ 12章27、28節」と。
遂に主は、人類への贖いをご計画された聖父のご意思に、自らのご意思を完全に従わせ、勝利を取られた。この時以来、毅然と十字架に向かわれた。

※ キリスト者の勝利も、42節 「取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と従う 《 この明け渡しにのみ 》 ある。主に倣いたい。

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