聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 98


ルカの福音書22章35節~38節

先週は、主が厳かに新しい契約を結ばれた直後、23節の議論に次いで、24節 「自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか」という議論に花を咲かせた弟子たちに、26節 「しかし、あなたがたは」と、指導されたおことばに学んだ。

ⅰ 弟子たちの議論する態度は、25節【世の権威者が求めて止まない】肉的野心に類似するものだとの指摘。
「異邦人の王たち、権威を持つ者」の野心は、委( ゆだ )ねられた権威をもって、「守護者と呼ばれています ⇒ 自分自身を呼ぶ、呼ばせる、呼ばれたがる」風潮だったからだと。

ⅱ 積極的には、27節c 「わたしはあなたがたの間で、給仕する者」との 《 主が取られた在り方に従う 》 ようにと。
a. ヨハネ 13章がその解説。晩餐のテーブルを囲みながら、誰が偉いのかを議論する弟子たちから、しもべの立場に身を置く者など現れる筈のない中、主は、唯、傍観している弟子たちを咎( とが )めるのでもなく、ご自身がその立場を取られた !!
b. むしろ主は、弟子たちのこの後を気遣い、31節 「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけ」ると警告し、皆、「力づけ」られる必要があるとまで言われた。
c. 28節 詳訳 「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、ずっと、踏み止まって耐え抜いてくれた者」だったとの感謝と共に、29、30節では、やがての祝福まで約束しておられるとは !! お別れに際しての感謝は、忍耐して下さった主に捧げるべきものだったのではないか !!

※ キリスト者の在り方は、この世の原理とは相容れないものだとの自覚の下、主に倣う者でありたい、と。


今朝は、35節で主が、「わたしがあなたがたを、財布も袋も履き物も持たせずに遣わしたとき、何か足りない物がありましたか」と、ご自身と共にあった生活を振り返らせてから、36節で「しかし今は」と 《 ただならない新しい局面に入ることを告げられた時のおことば 》 に注目したい。
そして主からの、「しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい」とは 《 何が意味されていた 》 のかを考えたい。
ラルフ・アールは 《 平和の時は、戦いの時に変わった 》 と言い、又、他に 《 今は自発的な親切も平和的な受け入れも、名誉ある安全も期待出来ない時を迎えることになった 》 と主は仰っているとも言われている、と。ご自身の捕縛後、弟子たちを待っているであろう困難に備えるべく、警告されてのこと。
確かに主と共にあった三年間、行く所行く所、全てで歓迎されていた訳ではないにしても、弟子たちが「いいえ、( 足りない物は )何もありませんでした」と応えられるような処遇を経験していた。9章1~9節を見ると、弟子たちは、7節 「領主ヘロデはこのすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた」という結果を得ていたのだ。従って、これまで友好的に受け入れられた働きも、今後は、未だかつて経験したことのない状況が待っていると警告されたのだ。
その契機が、37節 「・・・ 『 彼は不法な者たちとともに数えられた 』 と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現する・・・」とある、主の十字架である。

即ち、主の十字架による人類の贖( あがな )いが成し遂げられて後、遂に、福音宣教の為に派遣されるようになるからである。
主のこの予告通りに、『 使徒の働き 』 において現実となっているのを、私たちは見ている。
今朝は、今後の戦いに備えるべく ※ 36節 「・・・財布を持ち、・・・剣を買いなさい」と、その意味するところに注目してメッセージを。
彼らの即刻の反応は、38、「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」だったが、弟子たちは主の意図されたことが理解できていたのだろうか ? 恐らく弟子たちは、37節で主によってご自身の最期を明確にされたのを受けて、直ちに主に襲い掛かるであろう事態を想定し、 “ 私たちはこの「二本」の剣で、まさかの事態に主をお守りします ” との勢いによるものだったのでは ? 弟子たちのこの提案に、主は、38節b 「それで十分」と答えられたが、どのように考えても弟子たちが思っているような意味での同意だったとは思われない。
何故なら、39節 「それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた」そこで、主を待ち受けていた捕縛でのこと、49、50節 「イエスの周りにいた者たちは、事の成り行きを見て、『 主よ、剣で切りつけましょうか 』 と言った。そして、そのうちの一人が大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした」。この一人とは、「シモン・ペテロ」で、主から ※ 「剣をさやに収めなさい・・・」と叱責され( ヨハ 18・11 )、切り付けられたしもべは癒された。

又、マタイの福音書 26章52~54節 「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書がどのようにして成就するのでしょう」とも。
あくまでも主のご意思は、ペテロが受け取ったような意味では言っていないと思われる。私たちは、攻撃用ではなく自己防衛用に、剣を持つように言われたのでは ? と、考えるかも知れないが、同 5章39節では「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と言われ、44節 「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とある聖句で明らかだ。

※ 今朝、こうしたことから二つのことを。
a. 弟子たちは、直訳主義・物質主義という不運な病気にかかっていたと、ラルフ・アールは言っているが、正に然り。みことばの身勝手な悪用には気をつけたい。自らの身を守る為にならば、剣を使って良しとする文化には NO !! と。
b. 実際、主の言われた「剣を買いなさい」、弟子たちからの「剣が二本あります」に対して、主が「それで十分」と答えられた主の意図が分からないとしても、無理に考えようとはせずに、主のご性質から全てを鑑( かんが )みつつ、信頼に生きることに留意したい。

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