ルカの福音書22章24節~34節
先週は、主が ※ 15節で「わたしは、苦しみを受ける前に」と設けられた最後の晩餐の席で取り交わされた 《 聖餐式の制定と新しい契約 》 について考え、教会とは、主から「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と交わして頂いた 《 神との契約関係で結ばれている存在 》 との自覚を新たにした。
20節 「新しい契約」とは、神が初めの人アダムと結んだ契約に対してであるが、その契約は彼らの違反によって破られた為、創世記 2章16、17節 「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と、違反には「死」が報いとなった。
しかしその「死」を主が十字架上で引き受けられたので、裂かれる肉と流される血を飲むなら、永遠の資産相続者となると。
主は実に 《 出エジプトの日 》 鴨居に塗られた小羊の血を見て過ぎ越された出来事と重ねながら、感慨深い面持ちで弟子たちに告げられたのだ。実際、主のこれ程重大な告知を、旧約の預言者たちがこの日に向けて語り続けて来ていたこの畏れ多い告知を、弟子たちの一体誰がその如く知り得ただろうか ?
主に見合った聞き手ではなかったのが十二弟子。
何とその一人は、21、22節 「裏切る者」、他の弟子たちも、23、24節 「議論をし始め」る程度の弟子たち。
何故主には、そのような彼らで支障がないのか ?
コリント人への手紙 第一 13章7節 詳訳 「いつでも快く全ての人の最善を極度まで信じ、どんな事情の時にも色あせることのない希望を抱き、あらゆる事に耐え弱ることが」ないと。
※ 忝( かたじけ )なくも、主からの「新しい契約」の血に与ることによって、約束された永遠の遺産を相続する者でありたい、と。
今朝は、主が、未だ事の重大さに目覚めてはいない弟子たちに、19、20節 「それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『 これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。 』 食事の後、杯も同じようにして言われた。『 この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です・・・ 』 」と 《 厳かに契約を結ばれた直後 》、又しても、24節 「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった」とある肉のままの弟子たちを指導されたおことばに学びたい。
この「・・・という議論も」とは、23節で交わした議論、即ち、「自分たちのうちのだれが、そんなことをしようとしているのか」に次いで出て来た議論だったと考える時、悲しい現実を見る。マルコ 14章19節では、主のそのおことばを聞いた時、「弟子たちは悲しく( 詳訳 : 悲痛な、心を痛めた面持ちに )なり、次々にイエスに言い始めた。『 まさか私ではないでしょう。 』 」とあるこの彼らの悲しみは、どのようなもの ?
もし 《 裏切られることになると言われる主の 》 み思いに気遣い、その裏切る者が誰であれ、互いを一つであると考えているならば、主を裏切るとの滅相もない罪を犯すことになると !! 聞き捨てならない重大事とする悲しみだったならば、その直後の ※ 24節 「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という」議論には、ならなかったのでは ? そこで見えて来るものは、そうした事態を受け入れ難いとする一般的反応のみで、霊的性質のものはない。
主を「裏切る者」が誰であろうと、主に愛された同志として、直ちに “ 私たちの内に潜んでいる罪の指摘 ” だと認めて悲しむ悲しみこそが、最初の反応でありたい。
為すべきことは、誰が ? との議論に時間を取るのではなく、該当者が誰であれ【結論的には、皆、主を捨てて散った弟子たちではないか !!】、彼らの内にある 《 主を裏切らせる肉の事実を知る 》 ことなのだ。
弟子たちの一部始終を知る主はこの事実を見逃さず、丁寧に弟子たちを扱われたのが、今朝の記事 !!
その鍵句は、26節 「しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい」である。
① 先ず、議論する弟子たちのそれは、25節、【この世の権威者が求めて止まない】肉的野心に類似するものだとの指摘。
「異邦人の王たち、権威を持つ者」の野心は、委( ゆだ )ねられた権威をもって、「守護者と呼ばれています」と。
ここで用いられている言葉の意味合いについての注解書などを見ると、「 『 自分自身を呼ぶ、呼ばせる 』 とも訳すことができ、彼らはこの称号で呼ばれることを主張し、守護者と呼ばれたがる風潮が強かった」とある。大なり小なり、この世の権威者たちに見受けられる共通的傾向であり、ローマ人への手紙 13章1節 「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって」との、神の啓示に無知でいることによる弊害 !!
② 積極的には、「しかし、あなたがたは」と、上に立たなければならない立場に置かれた者であれば、27節c 「わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています」と、主が取られた在り方に従うようにと。
a. 実に主は、この晩餐の席での様子が伝えられている ※ ヨハネの13章にある如く、弟子たちにはこれ以上の解説はない。
晩餐のテーブルを囲みながら、誰が偉いかを議論する弟子たちからは、僕( しもべ )の立場に身を置く者など現れる筈がない。
そのような中、主は立ち上がらずに傍観している弟子たちを咎( とが )めるのでもなく、ご自身がその立場を取られた !!
b. むしろ主は、弟子たちのこの後を気遣い、31節 「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけ」ると警告し、皆、「力づけ」られる必要があるとまで言われた。
特に年長者であるペテロが、議論で自らの立場を主張していたからなのか ? 「サタンがあなたがたを」と言われる時、「シモン、シモン」と名指しで、注意を促された。
c. 28節 詳訳 「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、ずっと、踏み止まって耐え抜いてくれた者」だったと、感謝しておられるとは !! 更には、29、30節では、やがての祝福まで約束しておられるとは !!
お別れに際しての感謝は、忍耐して下さった主に捧げるべきものであるのに、主から感謝されているとは !!
※ キリスト者の在り方は、この世でまかり通っている原理とは相容れないものとの自覚の下、主に倣う者でありたい。
先週は、主が ※ 15節で「わたしは、苦しみを受ける前に」と設けられた最後の晩餐の席で取り交わされた 《 聖餐式の制定と新しい契約 》 について考え、教会とは、主から「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と交わして頂いた 《 神との契約関係で結ばれている存在 》 との自覚を新たにした。
20節 「新しい契約」とは、神が初めの人アダムと結んだ契約に対してであるが、その契約は彼らの違反によって破られた為、創世記 2章16、17節 「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と、違反には「死」が報いとなった。
しかしその「死」を主が十字架上で引き受けられたので、裂かれる肉と流される血を飲むなら、永遠の資産相続者となると。
主は実に 《 出エジプトの日 》 鴨居に塗られた小羊の血を見て過ぎ越された出来事と重ねながら、感慨深い面持ちで弟子たちに告げられたのだ。実際、主のこれ程重大な告知を、旧約の預言者たちがこの日に向けて語り続けて来ていたこの畏れ多い告知を、弟子たちの一体誰がその如く知り得ただろうか ?
主に見合った聞き手ではなかったのが十二弟子。
何とその一人は、21、22節 「裏切る者」、他の弟子たちも、23、24節 「議論をし始め」る程度の弟子たち。
何故主には、そのような彼らで支障がないのか ?
コリント人への手紙 第一 13章7節 詳訳 「いつでも快く全ての人の最善を極度まで信じ、どんな事情の時にも色あせることのない希望を抱き、あらゆる事に耐え弱ることが」ないと。
※ 忝( かたじけ )なくも、主からの「新しい契約」の血に与ることによって、約束された永遠の遺産を相続する者でありたい、と。
今朝は、主が、未だ事の重大さに目覚めてはいない弟子たちに、19、20節 「それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『 これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。 』 食事の後、杯も同じようにして言われた。『 この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です・・・ 』 」と 《 厳かに契約を結ばれた直後 》、又しても、24節 「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった」とある肉のままの弟子たちを指導されたおことばに学びたい。
この「・・・という議論も」とは、23節で交わした議論、即ち、「自分たちのうちのだれが、そんなことをしようとしているのか」に次いで出て来た議論だったと考える時、悲しい現実を見る。マルコ 14章19節では、主のそのおことばを聞いた時、「弟子たちは悲しく( 詳訳 : 悲痛な、心を痛めた面持ちに )なり、次々にイエスに言い始めた。『 まさか私ではないでしょう。 』 」とあるこの彼らの悲しみは、どのようなもの ?
もし 《 裏切られることになると言われる主の 》 み思いに気遣い、その裏切る者が誰であれ、互いを一つであると考えているならば、主を裏切るとの滅相もない罪を犯すことになると !! 聞き捨てならない重大事とする悲しみだったならば、その直後の ※ 24節 「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という」議論には、ならなかったのでは ? そこで見えて来るものは、そうした事態を受け入れ難いとする一般的反応のみで、霊的性質のものはない。
主を「裏切る者」が誰であろうと、主に愛された同志として、直ちに “ 私たちの内に潜んでいる罪の指摘 ” だと認めて悲しむ悲しみこそが、最初の反応でありたい。
為すべきことは、誰が ? との議論に時間を取るのではなく、該当者が誰であれ【結論的には、皆、主を捨てて散った弟子たちではないか !!】、彼らの内にある 《 主を裏切らせる肉の事実を知る 》 ことなのだ。
弟子たちの一部始終を知る主はこの事実を見逃さず、丁寧に弟子たちを扱われたのが、今朝の記事 !!
その鍵句は、26節 「しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい」である。
① 先ず、議論する弟子たちのそれは、25節、【この世の権威者が求めて止まない】肉的野心に類似するものだとの指摘。
「異邦人の王たち、権威を持つ者」の野心は、委( ゆだ )ねられた権威をもって、「守護者と呼ばれています」と。
ここで用いられている言葉の意味合いについての注解書などを見ると、「 『 自分自身を呼ぶ、呼ばせる 』 とも訳すことができ、彼らはこの称号で呼ばれることを主張し、守護者と呼ばれたがる風潮が強かった」とある。大なり小なり、この世の権威者たちに見受けられる共通的傾向であり、ローマ人への手紙 13章1節 「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって」との、神の啓示に無知でいることによる弊害 !!
② 積極的には、「しかし、あなたがたは」と、上に立たなければならない立場に置かれた者であれば、27節c 「わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています」と、主が取られた在り方に従うようにと。
a. 実に主は、この晩餐の席での様子が伝えられている ※ ヨハネの13章にある如く、弟子たちにはこれ以上の解説はない。
晩餐のテーブルを囲みながら、誰が偉いかを議論する弟子たちからは、僕( しもべ )の立場に身を置く者など現れる筈がない。
そのような中、主は立ち上がらずに傍観している弟子たちを咎( とが )めるのでもなく、ご自身がその立場を取られた !!
b. むしろ主は、弟子たちのこの後を気遣い、31節 「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけ」ると警告し、皆、「力づけ」られる必要があるとまで言われた。
特に年長者であるペテロが、議論で自らの立場を主張していたからなのか ? 「サタンがあなたがたを」と言われる時、「シモン、シモン」と名指しで、注意を促された。
c. 28節 詳訳 「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、ずっと、踏み止まって耐え抜いてくれた者」だったと、感謝しておられるとは !! 更には、29、30節では、やがての祝福まで約束しておられるとは !!
お別れに際しての感謝は、忍耐して下さった主に捧げるべきものであるのに、主から感謝されているとは !!
※ キリスト者の在り方は、この世でまかり通っている原理とは相容れないものとの自覚の下、主に倣う者でありたい。
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