聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 96


ルカの福音書22章7節~23節

先週は、主が二日後には弟子たちとの最後の晩餐を予定しておられる頃の、主を取り囲む周囲の状況に注目した。
2節で、イエスを殺すための良い方法を探していた宗教家たちの、苛立ち露わにされているのが見える。
その彼らにうってつけの人物、3節 「十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダ」が現れ、彼らは大歓迎した。イスカリオテが「十二人の一人」だったと明記されていることに、聖霊の憂い、悲しみを読み取りつつ、何がユダをしてこの 《 悲劇的で大それた行動に出させた 》 のか、それを解く鍵が、3節 「ユダに、サタンが入った」にあったと見た。 

ⅰ サタンの介入について、ヨハネは、ユダにサタンが入ったのは段階的だったと伝えているが、サタンは、神の子たちの神との関係を羨( うらや )み、隙あらばその関係に溝を作り、破綻させることを目的として、じりじりと誘惑するということ。

ⅱ サタンの介入は避けられないが、もしユダが初めに感じた 《 肉性の事実を黙認し、放置し続けさえしなければ 》 致命的な結末には至らなかった。にも拘らずユダは・・・。
ユダの肉性はつい先に 《 ナルドの香油を惜しげなく主に注いだマリアの献身 》 が光となって露呈されたが、偽善を装って、マリアを咎( とが )めた為、主の叱責を受けることに。
ヤコブ 1章15節 詳訳 「悪い欲望が身ごもると、罪を生み出し、罪は成熟して死をもたらす」方向に向かう。悪意を抱きつつも 《 しらを切って 》 最後の晩餐の席に臨むユダの結末は闇であっても当然なのだ。

※ 良心に従わない末路の恐ろしさをユダに見て警戒を !! と。


今朝は、主が15節で、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました」と言われたその最後の晩餐の席で取り交わされた 《 聖餐式の制定と新しい契約について 》 考えたい。
この場面について、パウロの説明がある。
コリント人への手紙 第一 11章23~26節で、「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。『 これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。 』 食事の後、同じように杯を取って言われました。『 この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。 』 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです」と。
教会は主が制定されたこの聖餐式を、その初めの日から二千年の長きに亘( わた )って執り行って来て、今日に至っている。
教会とは、主から「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と交わして頂いた 《 神との契約関係が結ばれて存在している群れ 》 なのだ。
この最後の晩餐の席を弟子たちとでと切願されたのは、弟子たちと、そしてやがて弟子たちの宣教によって救われるであろう人々( ユダヤ人のみならず、異邦人、そして私たち )との間に、この 《 新しい契約を結ぶという厳粛な画期的な出来事 》 が遂に成立することになると伝えたかったからなのだ。

主が個人的慰めを求められての場ではなく、厳粛な契約を結ぶ為の極めて重要な聖なる場だった。
この過越の祭りは、430年に及ぶ滞在を経ての、イスラエル人のエジプト脱出( 奴隷解放 )を記念する日である。イスラエル人の出国を許すまいとするエジプト王の頑( かたく )なな拒絶に鉄槌を下された神の裁きの日、エジプトの家々からは長子の死を泣き叫ぶ声を聞く中、屠られた小羊の血を見る時、その家を過ぎ越すと言われて、鴨居に血を塗るようにとの指示に従ったイスラエルが救出されたあの夜。
この時のモーセ以来、1500年守られて来たこの過越の祭りは、実に翌日に控える十字架を予表したものであり 《 わたしは実に明日、その実体として肉を裂き、血を流す 》 ことによって成立する契約を結ぶ為に、最後の晩餐を設けられたのだ。
へブル人への手紙 9章15節 「キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖( あがな )い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです」と、主が晩餐を ※ 15節 《 切願 》 しておられた理由は、ここにある。
主の言われる、20節 「新しい契約」とは、神が初めの人アダムと結んだ契約に対してであるが、その契約は彼らの違反によって破られた。契約には、契約を結んだ両者との間に、条件が取り交わされ、それを守らなければ刑罰が伴う。創世記 2章16、17節 「しかし・・・食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」。初めの契約は、アダムとエバの違反によって破られ、違反には「死」が報いとなった。

しかしその「死」を主が十字架上で引き受けられたので、裂かれる肉と流される血を飲むなら、永遠の資産相続者となると。
主は実に、感慨深い面持ちで弟子たちに告げられたのだ。
実際、主のこれ程重大な告知を、旧約の預言者たちがこの日に向けて語り続けていたこの畏れ多い告知を、弟子たちの一体誰がその如く知り得ただろうか ?
主に見合った聞き手ではなかったのが十二弟子。
何とその一人は、21、22節 「わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓の上にあります」と。他の弟子たちの、23、24節 「互いに議論をし始めた。また・・・だれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった」様子にも不甲斐なさが。
しかし主にとっては、聞き手の現実が如何にあれ、語るのに支障はなかった。15節 「苦しみを受ける前に・・・この過越の食事をすることを、切に願ってい」たのは、実に 《 そのあなたがたとなのだ 》 と言われる。
何故支障がないのか ? 主が、32節 「・・・あなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言われても謙虚さがなく、33節で豪語するペテロは、主を裏切る。しかしそれと知って、32節 「あなたは立ち直ったら」と言われる主。コリント人への手紙 第一 13章7節 詳訳 「いつでも快く全ての人の最善を極度まで信じ、どんな事情の時にも色あせることのない希望を抱き、あらゆる事に耐え弱ることが」ないと。

※ 主が成立させて下さった「新しい契約」の血に与ることによって、約束された永遠の遺産を相続する者でありたい。

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