聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 94


ルカの福音書21章5節~38節

先週は、頑( かたく )なな宗教家たちと語られるのに渾身の力を絞り出されてお疲れだったと思われる主が、「目を上げて」目にされた光景から、21章3節 「この貧しいやもめは・・・」と、彼女の信仰を褒められた 《 主の評価規準は何処に 》 を学んだ。

ⅰ 主は、献金を捧げる者の捧げる動機を注視される点に。
「貧しいやもめ」の捧げ物は、2節 「レプタ【1デナリの128分の1で、日給5000円の場合は39円】銅貨二枚」であり、4節b 「この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべて」だった。但し主がこれを強要しておられるのではない。
彼女の献金の理解は、単なる義務感によるものではなく、あくまでも主への自主的で積極的な信仰によるものだった。
そこまでしなくてもと、肉は意見するかも知れない。
何故なら、彼女は「やもめ」であり、しかも「貧しい」。
しかも、やもめの家を食い尽くすパリサイ人たちの被害者でもあり、献金も、 “ だから、出来ない。する必要なし ” とすることも出来たに違いないが、捧げたかったのだ。

ⅱ 主は、献金を捧げる者の清められた手を注視される点に。
金持ちたちの捧げた ※ 4節 「あり余る」お金には、やもめの家を食い尽くして得たものが入っていると考えられる。
霊の世界は、善行そのものに価値があるのではなく、生活の在り方を問う。マタイ 5章23、24節 「祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに・・・。それから」とあり、礼拝、献金は日々の在り方を度外視出来ない。

※ 受難の主の目に適( かな )う生き方をもってお仕えしたい、と。


今朝は、21章5節から21章全体を拝読したが、マタイ、マルコでは、この説教は弟子たちに 《 オリーブ山でなされた 》 とあるが、地上でのご生涯を閉じる最後の長い説教である。
説教の内容は、5、6節で、「宮が美しい石や奉納物で飾られている、と何人かが話していたので、イエスは言われた。『 あなたがたが見ているこれらの物ですが、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます。 』 」と交わされた 《 終末の予告について 》 である。
この終末については、これまでも言及しておられたことでもある。13章35節 「見よ、おまえたちの家は見捨てられる」、19章41~44節 「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。『 もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら―。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。 』 」と。
これまでの予告は、主の復活後のペンテコステによる聖霊の注ぎ以降、『 使徒の働き 』 に見る宣教への直接的迫害が本格化し、ローマ帝国の圧倒的権力によってA.D.70年、エルサレムが陥落・滅亡に至ることについてであった。
しかしこの21章では、そのエルサレム滅亡と主の再臨による世の終わりとを重ねての予告となっている。

ということは、将来的ご自身の再臨を見据えて、身近に迫っているエルサレム滅亡を語り、エルサレム滅亡を語りつつ、やがての再臨について語っておられるというのだ。
主は弟子たちから、7節 「いつ・・・ですか。・・・しるしは」と尋ねられて答えられた 《 顕著な内容 》 は・・・。
8節 「わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『 私こそ、その者だ 』 とか 『 時は近づいた 』 とか言います」と偽キリストの出現/9節 「戦争や暴動」、10節 「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」/11節 「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます」/12節 「迫害」/20節 「エルサレムが軍隊に囲まれる」/24節 「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国の人々のところに連れて行かれ、異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます」/25、26節 「太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです」とある天変地異。このような出来事は、主のこの予告から二千年の間に、諸現象として実際起こっていることであり、近年においては、その規模、発生頻度において深刻化し、その現象が周囲に及ぼす影響力の甚大さ、それこそ未曾有の出来事とか、未だかつて経験したことのない出来事とかといった言葉で説明されるようになっていることから極めて現実的な問題なのだ。

こうした事実を前に鳴らされている警鐘とは ?

① 言及されている 《 時 》 を弁( わきま )えるべきこと。

a. 20節 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」、24節b 「異邦人の時が満ちるまで【異邦人の世の権力が支配する全期間】、エルサレムは・・・踏み荒らされます」。目前に迫ったA.D.70年のローマ軍によるエルサレム神殿の崩壊とユダヤ人離散の予告と同時に、終末が意味されている。cf. 別プリント【国家民族法 : ユダヤ人の国か民主国家か】
b. 22節 「書かれていることがすべて成就する、報復の日々だからです」 ⇒ 20章16節の成就 ⇒ 申命記 28章15~68節。

② キリスト者として心得るべきこと。

a. 12~19節、迫害を覚悟し、その迫害を恐れずに証の機会とし、忍耐によって自分のいのちを勝ち取るべきこと。
b. 25~28節、諸国の民が恐怖に襲われる中、「身を起こし、頭を上げ」、神の約束に堅く立つべきこと。33節 「天地は消え去ります。しかし・・・」だから。又、36節b 「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」、絶えざる神との交わりに生きるべきこと。
c. 34節、生活【交際関係 ? 思い煩い ?】の吟味に怠りがないように、気を付けるべきこと。それらが「罠」となるから。

※ 宮の美しさに感嘆する声( 5節、マルコでは13章1節 )を耳にされて語られた主の説教は、形ある全ての物の破壊を宣言し木っ端微塵にされるお方から出ている宣言であると、心したい。

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