ルカの福音書21章1節~4節
先週は、主に殺意を抱いて質問して来た指導者たちが、20章40節 「それ以上、何も」と敗北感を味わった為、面談はこれで終わったかと思われたその時 !! 主がご自身に敵対する彼らをそのまま立ち去らせたく思われず、41節 「すると( しかし )」と彼らの致命的な過ちを正して、彼らに 《 救いの機会 》 をと願われて質問で近づかれた主に注目した。
主の重荷は、彼らが、47節 「こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです」と言われている人々だからだ。
彼らが受ける、「より厳しい罰」に至る罪とは、46a’、47、にある 《 外見上の敬虔さを装い、特別視されて特別な尊敬が払われることに関心を抱き、虚栄心を満たそうとし、優越感に浸る内的高慢さ、未亡人に対する非情で薄情な仕打ちをしながら、善行だと称して施しをし、祈りは神にではなく、人に向かっての見せ物でしかない偽善 》 である。
主が彼らを正すべく出された質問は、41節 「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか」、44節 「ダビデがキリストを主と呼んでいるのです。それなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」であった。
この日まで、人の子として仕える日々、謙遜の限りを尽くされたが、三日後、十字架で処刑される主は、ご自身 《 神が人となって来た、それがわたしだ !! 》 との受肉の事実を明確にして、彼らへの最後的な責任を果たされた。
※ 人間的標準で主を見て侮( あなど )り、間もなく十字架に付けようとする彼らに、今からでも悔い改めないかと迫っておられる主の極みまでの愛を学び、それを自らのものとしたい、と。
今朝は、21章に入り、3節 「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました」に見る 《 主の価値あるとされた評価 》 に注目したい。
1節には「イエスは目を上げて」とある。明らかに、見上げなければならない位置に、献金箱があったからだというより、主のこの仕草に、これまで交わして来られた宗教指導者たちとのやり取りから 《 身を起された 》 ということで、情熱を傾けられたことによる疲れが、主を襲い、主は目を伏せておられたということではないだろうか。
それというのも、議論を持ち掛けて来た宗教家たちへの糾弾を見ると、唯事ではなかったからだ。ルカの ※ 20章46、47節 「律法学者たちには用心しなさい。彼らは・・・」との記録は、その時語られた警告のほんの一部分でしかなく、 《 マタイが23章全体 》 を要して伝えているその内容でも明らか。
渾身の力を絞り出して、語っておられたことで分かる。
2節から始まるが、何度も「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは・・・ 13( ※ 14 )、15、16、23、25、27、29節」と語りつつ、37節 「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ・・・」と、涙を流された主なのだ。人の子である主 !! 語り掛けがあったとしても謙虚に受け入れようとはしない、彼らの強欲さ、肉の強さに疲労感を覚えて、頭をうなだれておられたのではないか !!
その時ふと、ルカ 21章1節 「イエスは目を上げて」と、目にされた光景から、献金箱に捧げている、極めて対照的な二人の人物が映ったというのだ。主は、20章47節で「やもめの家を食い尽く」す律法学者の偽善を目の当たりにする中、彼らの犠牲者となっている21章2節 「ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見」られた時のこのやもめの信仰を見届けられた喜びようはひと方ではなかったに違いない。
さて、主は、「貧しいやもめが」捧げた捧げ物を、3節 「だれよりも多くを投げ入れました」と言われたという問題であるが、主以外、一体誰がそのように考えるだろうか ? 《 主の評価の規準が何処に ? 》 を見なければならない。
① 主は、献金を捧げる者の捧げる動機を注視される。
「貧しいやもめ」の捧げ物は、2節 「レプタ【1デナリの128分の1で、日給5000円の場合は39円】銅貨二枚」であり、4節b 「乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべて」だった。但し主がこれを強要しておられるのでない。
主が献金について語っておられる聖句 ※ 11章42節では、パリサイ人は几帳面に「十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ」と。彼女の献金の理解は、単なる義務感によるものではなく、あくまでも主への自主的で積極的な信仰によるもの。
そこまでしなくてもと、肉は意見するかも知れない。何故なら、彼女は「やもめ」であり、しかも「貧しい」。しかも、やもめの家を食い尽くすパリサイ人の話が出ていることとは無関係だとは考えられない。
そうであるならば、宗教家たちによる被害者でもあり、捧げるにしても、 “ 出来ない。する必要なし ” とすることも出来たに違いない。しかし、彼女は献金を捧げたのだ。
列王記 第一 17章9~16節の出来事と重なる。
エリヤがある飢饉の最中、主から「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」と言われて訪ねた、あの「やもめ」の信仰とである。何と、15節 「彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした」のだから。
最後のレプタ銅貨二枚は、この時の一握りの粉と少しの油であり、それを神への捧げ物としたのだ。
② 主は、献金を捧げる者の清められた手を注視される。
金持ちたちの捧げた ※ 4節 「あり余る」お金は、どの様にして手にしたものなのかが、問われなければならなかった。やもめの家を食い尽くしておきながら、平気で捧げられるものではないのが、献金であるということ。
霊の世界は、何事かの善行をすれば良いというものではなく、生活の在り方そのものが捧げ物なのだ。マタイの5章23、24節 「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに・・・。それから」とあり、礼拝、献金は日々の在り方を度外視出来ない。
※ 受難の主の目に適( かな )う生き方をもってお仕えしたい。
先週は、主に殺意を抱いて質問して来た指導者たちが、20章40節 「それ以上、何も」と敗北感を味わった為、面談はこれで終わったかと思われたその時 !! 主がご自身に敵対する彼らをそのまま立ち去らせたく思われず、41節 「すると( しかし )」と彼らの致命的な過ちを正して、彼らに 《 救いの機会 》 をと願われて質問で近づかれた主に注目した。
主の重荷は、彼らが、47節 「こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです」と言われている人々だからだ。
彼らが受ける、「より厳しい罰」に至る罪とは、46a’、47、にある 《 外見上の敬虔さを装い、特別視されて特別な尊敬が払われることに関心を抱き、虚栄心を満たそうとし、優越感に浸る内的高慢さ、未亡人に対する非情で薄情な仕打ちをしながら、善行だと称して施しをし、祈りは神にではなく、人に向かっての見せ物でしかない偽善 》 である。
主が彼らを正すべく出された質問は、41節 「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか」、44節 「ダビデがキリストを主と呼んでいるのです。それなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」であった。
この日まで、人の子として仕える日々、謙遜の限りを尽くされたが、三日後、十字架で処刑される主は、ご自身 《 神が人となって来た、それがわたしだ !! 》 との受肉の事実を明確にして、彼らへの最後的な責任を果たされた。
※ 人間的標準で主を見て侮( あなど )り、間もなく十字架に付けようとする彼らに、今からでも悔い改めないかと迫っておられる主の極みまでの愛を学び、それを自らのものとしたい、と。
今朝は、21章に入り、3節 「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました」に見る 《 主の価値あるとされた評価 》 に注目したい。
1節には「イエスは目を上げて」とある。明らかに、見上げなければならない位置に、献金箱があったからだというより、主のこの仕草に、これまで交わして来られた宗教指導者たちとのやり取りから 《 身を起された 》 ということで、情熱を傾けられたことによる疲れが、主を襲い、主は目を伏せておられたということではないだろうか。
それというのも、議論を持ち掛けて来た宗教家たちへの糾弾を見ると、唯事ではなかったからだ。ルカの ※ 20章46、47節 「律法学者たちには用心しなさい。彼らは・・・」との記録は、その時語られた警告のほんの一部分でしかなく、 《 マタイが23章全体 》 を要して伝えているその内容でも明らか。
渾身の力を絞り出して、語っておられたことで分かる。
2節から始まるが、何度も「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは・・・ 13( ※ 14 )、15、16、23、25、27、29節」と語りつつ、37節 「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ・・・」と、涙を流された主なのだ。人の子である主 !! 語り掛けがあったとしても謙虚に受け入れようとはしない、彼らの強欲さ、肉の強さに疲労感を覚えて、頭をうなだれておられたのではないか !!
その時ふと、ルカ 21章1節 「イエスは目を上げて」と、目にされた光景から、献金箱に捧げている、極めて対照的な二人の人物が映ったというのだ。主は、20章47節で「やもめの家を食い尽く」す律法学者の偽善を目の当たりにする中、彼らの犠牲者となっている21章2節 「ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見」られた時のこのやもめの信仰を見届けられた喜びようはひと方ではなかったに違いない。
さて、主は、「貧しいやもめが」捧げた捧げ物を、3節 「だれよりも多くを投げ入れました」と言われたという問題であるが、主以外、一体誰がそのように考えるだろうか ? 《 主の評価の規準が何処に ? 》 を見なければならない。
① 主は、献金を捧げる者の捧げる動機を注視される。
「貧しいやもめ」の捧げ物は、2節 「レプタ【1デナリの128分の1で、日給5000円の場合は39円】銅貨二枚」であり、4節b 「乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべて」だった。但し主がこれを強要しておられるのでない。
主が献金について語っておられる聖句 ※ 11章42節では、パリサイ人は几帳面に「十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ」と。彼女の献金の理解は、単なる義務感によるものではなく、あくまでも主への自主的で積極的な信仰によるもの。
そこまでしなくてもと、肉は意見するかも知れない。何故なら、彼女は「やもめ」であり、しかも「貧しい」。しかも、やもめの家を食い尽くすパリサイ人の話が出ていることとは無関係だとは考えられない。
そうであるならば、宗教家たちによる被害者でもあり、捧げるにしても、 “ 出来ない。する必要なし ” とすることも出来たに違いない。しかし、彼女は献金を捧げたのだ。
列王記 第一 17章9~16節の出来事と重なる。
エリヤがある飢饉の最中、主から「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」と言われて訪ねた、あの「やもめ」の信仰とである。何と、15節 「彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした」のだから。
最後のレプタ銅貨二枚は、この時の一握りの粉と少しの油であり、それを神への捧げ物としたのだ。
② 主は、献金を捧げる者の清められた手を注視される。
金持ちたちの捧げた ※ 4節 「あり余る」お金は、どの様にして手にしたものなのかが、問われなければならなかった。やもめの家を食い尽くしておきながら、平気で捧げられるものではないのが、献金であるということ。
霊の世界は、何事かの善行をすれば良いというものではなく、生活の在り方そのものが捧げ物なのだ。マタイの5章23、24節 「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに・・・。それから」とあり、礼拝、献金は日々の在り方を度外視出来ない。
※ 受難の主の目に適( かな )う生き方をもってお仕えしたい。
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