聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 92


ルカの福音書20章41節~47節

先週は献堂十九周年記念宣教礼拝を捧げ、「それを取って食べてしまいなさい」とのご指示を頂いて感謝の壇を築いた。いよいよ語られるおことばに従う姿勢を明確にして、再度、連講の 『 ルカ 』 に戻りたい。
前回は、主が、27節 「復活」を否定するサドカイ人たちの ※ 28~33節 「・・・では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」という、無知な質問を持ち掛ける彼らを退けず、「聖書も神の力も知らないので、思い違いをして」いるとして、彼らに 《 復活の事実 》 を実証された場面に注目した。

ⅰ 34~36節 「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世・・・は、めとることも嫁ぐこともありません」と。
主は、結婚は地上生活だけのことで、やがて迎えられる神の国においては最早結婚はないのでその考えは無用と。問題は、誰もが神の国に入れる訳ではなく、35節 「次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たち」であり、ここに注意すべきと。相応しい人とは、ローマ人への手紙 6章4~11節 「※ 5 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになる」人のこと。

ⅱ 主は、アブラハムもイサクもヤコブも今、不死の状態で生きており、やがて主の再臨の時、第一の復活に与るべく、その日を待っていると。

※ 主は挑戦者を「聖書も神の力も知らない」と理解し、真理をもって冷静に解明されたお方。この情熱に倣いたい、と。


今朝は、※ 20節、「総督の支配と権威に引き渡すため」という意図をもって詰め寄って来る【パリサイ人、義人を装った回し者( ヘロデ党員 )、サドカイ人たち】が投げ掛けて来た質問の全てに答えられた後のこと、主ご自身から彼らに向けてなされた 《 最後となった質問 》 に学びたい。
彼らの持ち込んだ質問とは、( 1 ) 2節 「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか」、( 2 ) 22節 「私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」、( 3 ) 28~33節 「・・・では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」だった。
しかし挑戦者は皆、主の説得力ある答弁に脅威を抱くのみで、40節 「彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった」、19章47、48 「・・・祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが、何をしたらよいのか分からなかった」と、その結果は主への苛立ちと、敗北感を味わわせられるだけだった。
ここで、主の彼らとの面談はこれで終わったかと思われたその時 !! 何と最後に、実に彼らにとっては主と面と向かって話の出来る最後の機会となるが、主ご自身が彼らに質問されたのだ。主はご自身に対する敵対心を露わにしている彼らをそのまま立ち去らせたくなかった。彼らの致命的な過ち、彼らの永遠を決定付ける重要な 《 主への理解 》 を正して、彼らに 《 救いの機会 》 を与えたいと願われたからなのだ。

41節 「すると」とは 《 しかし 》 の意で、40節 「彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった」ことを受けて、なのだ。主は彼らをこのままで去らせたいとは思われなかった。ご自身を金曜日の十字架刑に処して殺そうとしている彼らに、もう一度 《 悔い改めのチャンス 》 をと願われたからなのだ。エゼキエル書 18章31、32節 「新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない・・・だから立ち返って、生きよ。」と言われる主のお心が伝わって来る。
主の重荷は、彼らが、47節 「こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです」と言われている人々だからである。
彼らが、「より厳しい罰」を受けることになる罪とは ?
46a'、47、「彼らは長い衣を着て歩き回ることが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席・・・を好みます。また、やもめの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります」とある。
「長い衣を着て歩き回る」には、外見上の敬虔さを装う心、「広場であいさつされること」とは特別視されて特別な尊敬が払われることに関心を抱く、虚栄心を満たそうとする心、「上席」とは、会衆に面して備えられている席で、優越感に浸る心の現れである。
彼らの実際生活は、そのような心だから !! 結果、そうなるだろうと頷( うなず )ける極めておぞましい偽善なのだ。未亡人に対する非情で薄情な仕打ちをしながら、善行だと称して施しをすると言い、祈りは神にではなく人に向かっての見せ物でしかない。
彼らがエルサレムでの最高議会を占める指導者であるだけに、その責任の重さを思い、彼らへの神の裁きの厳粛さの故に、やはり主は、何も言えなくされている彼らへの最後の機会を逃す訳にはいかないとする救い主なのだ。

主が彼らを正すべく出された質問とは ?
41節 「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか」、44節 「ダビデがキリストを主と呼んでいるのです【42、43節で詩篇 110篇1節を引用された】。それなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」である。これは、 “ あなたがたの目の前にいるわたしは、ローマ人への手紙 1章3、4節 「肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです」。即ち、わたしは、人としてダビデの血筋から生まれたが、ダビデによって「主」と呼ばれる神。神が人の子として受肉した、それがわたし。神から遣わされた救い主だ ” との証言である。
この日まで、人の子として仕える日々、謙遜の限りを尽くされたが、三日後、十字架で処刑される主は、ご自身 《 神が人となって来た、それがわたしだ !! 》 との受肉の事実を明確にして、彼らへの最後的な責任を果たされた。

※ 人間的標準で主を見て侮( あなど )り、間もなく十字架に付けようとしている彼らに、今からでも悔い改めないかと迫っておられる主の極みまでの愛を自らのものとしたい。

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