聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 91


ルカの福音書20章27節~40節

先週は、主への敵対心を募らせて捕縛の ※ 20節 「機会を狙っていた」宗教指導者たちが、義人を装った回し者を遣わして、主に ※ 22節で税金を納めることについての答弁を求めた時のこと、その彼らが又しても、知恵をもって対応された主に26節 「驚嘆して黙」らざるを得なくされた場面に注目した。
主は、彼らの ※ 23節 「悪巧み」を見抜かれて、24節のやり取りをされて後、「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と逆質問で彼らを正された。

ⅰ 24節b 「カエサル【皇帝の称号】のです」に対し、25節、「カエサルのものはカエサルに・・・返しなさい」との指導で。
その「デナリ銀貨」の肖像は、皇帝ティべリウスで、銘は 《 神として崇められるアウグストゥスの子、カエサル・ティベリウス 》 ならば、カエサルへの義務として税を納めるべきと。「総督の支配と権威に引き渡す」陰謀は崩れることに。

ⅱ しかし主は、地上的な義務の指導で終わらせず、人としての本分について、25節b 「神のものは神に返しなさい」と、彼らをも神に立ち返らせようと指導された。
即ち、人間には 《 神の肖像と銘が刻まれている 》 ので、神に帰るべきだと。創世記 1章26、27節 「・・・人をご自身のかたちとして創造された」とある。しかし初めの人アダムが妻と共に犯した神への違反によって 《 神から身を隠した 》 が、その時以来、同 3章9節 「あなたはどこにいるのか。」との 《 神への立ち返り 》 を、悪巧みで近づく彼らにも迫られた。

※ 彼らは26節 「驚嘆して黙っ」たが、主の御心は、彼らの救いである。私たちも主と共に救霊者でありたい、と。


今朝は、主が、パリサイ人たちからの回し者に次いで質問を持ち掛けて来た ※ 27節 「復活」を否定するサドカイ人たちと向き合われた場面に注目したい。
このサドカイ人【エルサレム神殿を拠点に活動する祭司家系に連なる人々】とは、律法学者パリサイ人と共にその名を連ね 《 ユダヤ社会の【宗教・政治両面において権威を振るう】指導者たち 》 である。唯パリサイ人たちとは違い、彼らは ※ 27節 「復活があることを否定しているサドカイ人」だった。
その彼らが、26節 「民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙ってしまった」挑戦者の敗退を見てか ? 自分たちこそと持ち掛けて来たのか ? 28~33節の、「・・・では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」という質問だった。
彼らは、この質問を気の利いた難問だとして、自信満々に突き付けて来たと思われる。これは、復活を信じない彼らが、 “ 復活が如何に不合理であるか ” を立証する為の議論として持ち掛けたもの。 “ だから復活など、あり得ない !! ” として、主を悩ませようとの魂胆なのだ。
彼らが持ち出したこうした結婚については、申命記 25章5節 《 死んだ者の兄弟は未亡人となった彼の妻をめとり、彼の名を継ぐ 》 という義務で、聖書的根拠に基づいてはいた。
ところが彼らにとっては、不名誉にも番狂わせな結果となり、マタイの22章29節 「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています」との咎( とが )めを受けることに。

更には、彼らにとっては論敵関係にある律法学者たち【復活を信じる人々】からの ※ 39節 「先生、立派なお答えです」という反応は、揶揄的響きで聞かされることにもなった。
最終的には、40節 「彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった」と、太刀打ち出来ずに狼狽する始末に。
しかし、何と !! 主は無知な彼らを無下に退けずに、「聖書も神の力も知らないので、思い違いをして」いると、彼らを正し、愛によって 《 復活の事実について 》 実証された。

① 34~36節 「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世・・・は、めとることも嫁ぐこともありません」と。

主は、結婚関係は地上生活だけのことで、やがて迎えられる神の国においては最早ないと言われた。その理由として36節、「彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです」と言われた。即ち、神が結婚を制定された時、創世記 1章28節 「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『 生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ・・・ 』 」だったが、この地上から天に移された時には、その必要がないからだ。
そして、36節a’ 「彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです」と、やがて人はどのような形態で生きるのかを明確にしておられる。主はここで 《 ただし、と念を押して 》 誰もが神の国に与ることが出来る訳ではないと伝えておられる。35節 「次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たち」であると。
神の国に相応しい人とは、ローマ人への手紙 6章4~11節 「※ 5 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです」と 《 この霊的経験に与っている人 》 で、パウロの如く、ピリピ 3章7~11節 「復活に達したい」人のこと。

② 更に主は、実に、モーセ五書を神のことばと認めても他の聖書を受け入れない人々であると知った上で、モーセの書である 《 出エジプト記 3章6節 》 を引用して、復活の事実を解明された。

37、38節 「モーセも柴の箇所で、主を 『 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 』 と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです」と。この解釈は、アブラハムもイサクもヤコブも皆、今も不死の状態で生きており、やがて主の再臨の時、第一の復活に与るべく、その日を待っているのだと。
コリント人への手紙 第一 15章20節 「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」、23節 「・・・まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです」。

※ 主は、如何なる挑戦者をも、「聖書も神の力も知らない」からだとして 《 真理をもって冷静に解明されたお方 》。私たちにおいても、主のこの情熱に倣いたい。


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