ルカの福音書20章20節~26節
先週は、主に殺意を抱く祭司長たちを意識して話された 《 ぶどう園の主人が悪い農夫を扱われた 》 たとえ話【9~16節】に、主の、彼らに極限まで関わられる愛の現れを学んだ。
ⅰ 深刻な罪のあからさまな指摘をされることに。
宗教指導者たちを「農夫」に擬( なぞら )え、過去神が送り続けられた預言者たち「しもべ」を手荒く扱って【10~15節 「そのしもべを打ちたたき、何も持たせないで帰らせた/打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせた/傷を負わせて追い出した/外に放り出して、殺してしまった」】、主人である神に反抗し続けたという事実の指摘である。
16節 「主人はやって来て農夫たちを殺し・・・」と言われた時、指導者たちは、19節で「自分たちを指して」いる、即ち、自らを罪ありと認めざるを得なくされている。
ⅱ 但し、主の裁きは 《 忍耐の末に 》 執行されるということに。
しかしこの容赦なくなされる裁きにも、何という神の寛容をもってのこと !! 一度、二度、三度の派遣は、彼らの悪を忍耐してのこと。息子が殺害された時に初めて、主人がやって来て「農夫たち」に鉄槌を下している。
主の裁きは、直ちにではなく、彼らを待ってのこと !! 残念ながら彼らは、自らの罪を罪と認めつつも砕かれて出ようとはせず、主を殺害することによって、自らの罪責感から逃れようと躍起になっていく。
※ 愛は、魂に対して責任ある態度を取らせるもの。それを見た私たちは果たして、本当に隣人を愛しているだろうか ? が探られた。責任ある関わりを常とする者でありたい、と。
今朝は、彼ら宗教家たちが、主に対する敵対心を募らせながら、20節 「さて、機会を狙っていた彼らは・・・」と、「義人を装った回し者を遣わした」時のこと、又しても主が知恵をもって対応された為、26節 「彼らは、民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙」らざるを得なくされたという場面に注目したい。
この「回し者」とは、マタイの福音書 22章16節には「自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと」とある。パリサイ人とヘロデ党員【大多数のユダヤ人がローマの支配からの解放を願っている中、唯一、ヘロデ王朝を支持し、ローマの支配を望んでいた反パリサイ派のユダヤ人グループ】とは日頃から犬猿の間柄だったが、主を抹殺したいとすることでは一致していたので、パリサイ人が彼らに協力を求めた形である。
彼らの共通的狙いは、20節b 「イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すためであった」と明確で、その為の仕掛けが、彼らの質問である。
その初めに、21節 「先生。私たちは、あなたがお話しになること、お教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」との媚びへつらった上で、22節 「ところで」と本題に入り、「私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」だった。
主にはこれらの質問が ※ 23節 「悪巧み」によるものと見抜かれたので彼らは圧倒された。何故なら、彼らには願っていた答え【納める必要がない】が返って来なかったからである。
彼らに有無を言わせなかった主の回答は、25節 「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」だった。一体誰が、このような回答が返って来ると想像できただろうか !! 主のこの回答から、主が実に「真理に基づいて神の道を教えておられる」ことが、彼らには皮肉にも突き付けられることになり、同時に、彼らへの神を求めさせる機会が又しても与えられることになっているとは !!
主は、彼らの ※ 22節 「ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは・・・」の質問に、24、「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」と逆質問で、彼らの悪巧みに生きる地上生活を正されることになった。
① 24節b 「カエサル【皇帝の称号】のです」に対し、25、「カエサルのものはカエサルに・・・返しなさい」との指導。
その「デナリ銀貨」の肖像は、皇帝ティべリウスの頭像で、刻まれている銘は 《 神として崇められるアウグストゥスの子、カエサル・ティベリウス 》 だった。
従って、カエサルの銘が刻まれているならば、当然の義務として税を納めなさいとの指導だった。パリサイ人は、主が税を納めなくても良いと言うだろうと期待していたからこそ、ヘロデ党員と結託したのだが、こう言われたのでは、「総督の支配と権威に引き渡す」陰謀は崩れることに。
パウロが、ローマ人への手紙 13章で、上に立つ権威に従うべきと伝えて ※ 6、7節 「同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです」と指導したのも、主のこの姿勢に則( のっと )ってのこと。
② しかし主は、地上的な義務の指導で終わらせず、人としての本分について、25節b 「神のものは神に返しなさい」と、彼らをも神に立ち返らせようと指導された。
「デナリ銀貨」を ※ 25節a’ 「カエサルのもの」と言われ、そこに、彼らローマ帝国における神として礼拝されるカエサルの頭像が刻まれているのであれば、25節b 「神のものは」、即ち、人間には 《 神の肖像と銘が刻まれている 》 との最も重要な真理を明らかにされ、「神に返しなさい」と、人間は神に帰らなければならないと指導されたのだ。このことは 《 ローマ社会の皇帝礼拝の罪 》 の指摘でもある。
創世記 1章26、27節 「・・・人をご自身のかたちとして創造された」とあるからである。しかし初めの人アダムが妻と共に犯した神への違反によって 《 人は堕落し、神の形を喪失した 》。その時主が彼らに語り掛けられたおことばは、同 3章9節 「あなたはどこにいるのか」であり、その日以来今日まで、御子によって立ち返るように招いておられる。
エゼキエル書 33章10、11節 「・・・わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。・・・なぜ、あなたがたは死のうとするのか」と。
主は、彼らの質問による悪巧みをすら彼らの救霊の機会として捕らえ 《 神に立ち返るよう 》 迫られたのだ。
※ 彼らは、26節 「驚嘆して黙ってしまった」が、主の御心は、彼らの救いである。私たちも主と共に救霊者でありたい。
先週は、主に殺意を抱く祭司長たちを意識して話された 《 ぶどう園の主人が悪い農夫を扱われた 》 たとえ話【9~16節】に、主の、彼らに極限まで関わられる愛の現れを学んだ。
ⅰ 深刻な罪のあからさまな指摘をされることに。
宗教指導者たちを「農夫」に擬( なぞら )え、過去神が送り続けられた預言者たち「しもべ」を手荒く扱って【10~15節 「そのしもべを打ちたたき、何も持たせないで帰らせた/打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせた/傷を負わせて追い出した/外に放り出して、殺してしまった」】、主人である神に反抗し続けたという事実の指摘である。
16節 「主人はやって来て農夫たちを殺し・・・」と言われた時、指導者たちは、19節で「自分たちを指して」いる、即ち、自らを罪ありと認めざるを得なくされている。
ⅱ 但し、主の裁きは 《 忍耐の末に 》 執行されるということに。
しかしこの容赦なくなされる裁きにも、何という神の寛容をもってのこと !! 一度、二度、三度の派遣は、彼らの悪を忍耐してのこと。息子が殺害された時に初めて、主人がやって来て「農夫たち」に鉄槌を下している。
主の裁きは、直ちにではなく、彼らを待ってのこと !! 残念ながら彼らは、自らの罪を罪と認めつつも砕かれて出ようとはせず、主を殺害することによって、自らの罪責感から逃れようと躍起になっていく。
※ 愛は、魂に対して責任ある態度を取らせるもの。それを見た私たちは果たして、本当に隣人を愛しているだろうか ? が探られた。責任ある関わりを常とする者でありたい、と。
今朝は、彼ら宗教家たちが、主に対する敵対心を募らせながら、20節 「さて、機会を狙っていた彼らは・・・」と、「義人を装った回し者を遣わした」時のこと、又しても主が知恵をもって対応された為、26節 「彼らは、民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙」らざるを得なくされたという場面に注目したい。
この「回し者」とは、マタイの福音書 22章16節には「自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと」とある。パリサイ人とヘロデ党員【大多数のユダヤ人がローマの支配からの解放を願っている中、唯一、ヘロデ王朝を支持し、ローマの支配を望んでいた反パリサイ派のユダヤ人グループ】とは日頃から犬猿の間柄だったが、主を抹殺したいとすることでは一致していたので、パリサイ人が彼らに協力を求めた形である。
彼らの共通的狙いは、20節b 「イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すためであった」と明確で、その為の仕掛けが、彼らの質問である。
その初めに、21節 「先生。私たちは、あなたがお話しになること、お教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」との媚びへつらった上で、22節 「ところで」と本題に入り、「私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」だった。
主にはこれらの質問が ※ 23節 「悪巧み」によるものと見抜かれたので彼らは圧倒された。何故なら、彼らには願っていた答え【納める必要がない】が返って来なかったからである。
彼らに有無を言わせなかった主の回答は、25節 「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」だった。一体誰が、このような回答が返って来ると想像できただろうか !! 主のこの回答から、主が実に「真理に基づいて神の道を教えておられる」ことが、彼らには皮肉にも突き付けられることになり、同時に、彼らへの神を求めさせる機会が又しても与えられることになっているとは !!
主は、彼らの ※ 22節 「ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは・・・」の質問に、24、「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」と逆質問で、彼らの悪巧みに生きる地上生活を正されることになった。
① 24節b 「カエサル【皇帝の称号】のです」に対し、25、「カエサルのものはカエサルに・・・返しなさい」との指導。
その「デナリ銀貨」の肖像は、皇帝ティべリウスの頭像で、刻まれている銘は 《 神として崇められるアウグストゥスの子、カエサル・ティベリウス 》 だった。
従って、カエサルの銘が刻まれているならば、当然の義務として税を納めなさいとの指導だった。パリサイ人は、主が税を納めなくても良いと言うだろうと期待していたからこそ、ヘロデ党員と結託したのだが、こう言われたのでは、「総督の支配と権威に引き渡す」陰謀は崩れることに。
パウロが、ローマ人への手紙 13章で、上に立つ権威に従うべきと伝えて ※ 6、7節 「同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです」と指導したのも、主のこの姿勢に則( のっと )ってのこと。
② しかし主は、地上的な義務の指導で終わらせず、人としての本分について、25節b 「神のものは神に返しなさい」と、彼らをも神に立ち返らせようと指導された。
「デナリ銀貨」を ※ 25節a’ 「カエサルのもの」と言われ、そこに、彼らローマ帝国における神として礼拝されるカエサルの頭像が刻まれているのであれば、25節b 「神のものは」、即ち、人間には 《 神の肖像と銘が刻まれている 》 との最も重要な真理を明らかにされ、「神に返しなさい」と、人間は神に帰らなければならないと指導されたのだ。このことは 《 ローマ社会の皇帝礼拝の罪 》 の指摘でもある。
創世記 1章26、27節 「・・・人をご自身のかたちとして創造された」とあるからである。しかし初めの人アダムが妻と共に犯した神への違反によって 《 人は堕落し、神の形を喪失した 》。その時主が彼らに語り掛けられたおことばは、同 3章9節 「あなたはどこにいるのか」であり、その日以来今日まで、御子によって立ち返るように招いておられる。
エゼキエル書 33章10、11節 「・・・わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。・・・なぜ、あなたがたは死のうとするのか」と。
主は、彼らの質問による悪巧みをすら彼らの救霊の機会として捕らえ 《 神に立ち返るよう 》 迫られたのだ。
※ 彼らは、26節 「驚嘆して黙ってしまった」が、主の御心は、彼らの救いである。私たちも主と共に救霊者でありたい。
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