聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 89


ルカの福音書20章9節~19節

先週は、都入りされた ※ 「イエスを殺そうと狙っていた」宗教家たち( 19章47節 )の慌てふためく姿とは極めて対照的な主のお姿に注目しながら、私たちの生き方に光を頂いた。
20章2節の彼らの質問に対する主の答えが、3、4節だったことから、彼らは ※ 5~7節 「もし・・・と言えば、・・・もし・・・と言えば」と、自分たちが不利な事態に陥らないようにとの必死さだけで最終的には「知りません」と、無難な答えを。
彼らのその頑( かたく )なな罪の性質は、益々硬直状態になり、語る言葉に誠実さを欠き、いつでも保身の立場を常とすることに。
彼らの「知らない」に、主は ※ 8節 「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか・・・言いません」だった。
主をしてこのような出方をさせたのは、ヤコブ 3章13~18節にある ※ 17節 「上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません」に他ならない。
( 以下、同じくヤコブ 3章より )13節 別訳 「あなたがたのうちで、誰が知恵のある、或いは賢い人ですか。知恵から来る謙遜を伴った彼の正しい行いを、そのことの実際の証拠となるようにしなさい」である。
この「上からの知恵」に対照的な知恵は、15節 「地上のもの、肉的で悪魔的なものです」とあり、正に、主に対抗する宗教家たちの知恵で、14節 「苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい」と言われる 《 地上の知恵 》 なのだ。

※ お互いの行動も、「上よりの知恵」によるのか、「地上の知恵」によるものなのか、悉( ことごと )く吟味されながらの日々を !! と。


今朝は、主が、宮で話しておられたところに言い掛かりをつけて来た祭司長たちに知恵をもって対応された後、彼らの頑( かたく )なさを意識されて、20章9節から 《 ぶどう園の主人が悪い農夫を扱われた 》 話をされた場面に注目したい。
このたとえ話に出て来る「ある人」とは、父なる神であり、「ぶどう園」は、イスラエル民族のことである。この「ぶどう園」の管理と栽培、収穫の全てを任せられた「農夫」が、19節 「自分たちを指して語られたことに気づいた」とある「律法学者たちと祭司長たち」である。
10節 「収穫の時」を迎えたある節目に遣わされた「一人のしもべ」、11節 「別のしもべ」、12節 「三人目のしもべ」とは、旧約時代を通して派遣された預言者たちのことで、皆殉教死した人々である。
遂に、13節 「そうだ、私の愛する息子を」とは、言うまでもなく 《 独り子の主 》 である。但し、「この子なら、きっと敬ってくれるだろう」とあるが、御子を派遣された聖父が、御子を「敬ってくれるだろう」と思っておられた訳ではない。イザヤ書 53章 「彼は蔑( さげす )まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背( そむ )けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。・・・彼は痛めつけられ、苦しんだ・・・」と、遂には十字架の死をもって扱われることを知られての派遣。
従ってこのことは、ルカ 13章34節 「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに・・・それを望まなかった」に表された、希望される神の御心を意味しているのだ。
このたとえ話をされた 《 主の御思い 》 は、「律法学者たちと祭司長たち」に対する愛以外のなにものでもない。
彼らの殺意【19章47節 「イエスを殺そうと狙っていた」、20章19節 「イエスに手をかけて捕らえようとした」、20節 「機会を狙っていた」】を知っておられてのこと。
その上で話された主の彼らへの愛は、魂への重荷に他ならないが、どのような形に表されるのだろうか ?

① 深刻な罪のあからさまな指摘に。

「農夫」である宗教指導者たちは、事実、過去のどの時代にあっても、神が送り続ける預言者たちに反抗し続け、挙句の果てには殺害するのが常であったということ。
使徒の働き 7章51、52節 「・・・あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか・・・」とは殉教者ステパノの説教であるが、ここでもしっかり扱われている。
( ルカの20章に戻って )10節 「そのしもべを打ちたたき、何も持たせないで帰らせた」、11節 「打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせた」、12節 「傷を負わせて追い出した」、遂には、14、15節 「外に放り出して、殺してしまった」と。小作料として当然納めるべき物を拒み、逆に手荒な扱いである。
実は、15節 「こうなったら、ぶどう園の主人は彼らをどうするでしょうか」と尋ねたのは主ご自身で、16節 「主人はやって来て農夫たちを殺し・・・」と言われたのも主なのであるが、マタイの21章41節では「彼らはイエスに言った」と、指導者たちの答えとして出て来る。
何ということ !! 主は彼らのその答えを聞かれて、ルカ 20章17節 「家を建てる者たちが捨てた石」をご自身に宛がって、彼らのご自身への扱いに触れられた。指導者たちは、「農夫」の仕業は 《 裁きに価する行為だ 》 とすることによって、自らを罪ありと認めざるを得なくされている。

② とは言え、裁きが忍耐の末に執行されることに。

主は、18節 「だれでもこの石の上に落ちれば、粉々に砕かれ、またこの石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします」とご自身への反抗は、あなた方を破壊に導くと明言された。
しかしこの容赦なくなされる裁きにも、何という神の寛容をもってのことであるかとの示唆がある !! 一度、二度、三度との派遣には、見過ごしの期間があってのこと。主人がやって来て「農夫たち」に下された鉄槌は、息子を殺害した時にであって、それまでの期間は見過ごしだったとは !!
ローマ人への手紙 3章23~26節 「・・・神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。・・・今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです」と。
残念ながら、彼らは【自らの罪を罪と認めつつも】砕かれて出ようとせず、主を殺害することによって、自らの罪責感から逃れようと躍起になっていく。

※ 愛は、魂に対して責任ある態度を取らせるもの。それを見た私たちは果たして、本当に隣人を愛しているだろうか ? が探られる。責任ある関わりを常とする者でありたい !!

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