聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 88


ルカの福音書19章47節~20章8節

先週は、主が、救い主としてのエルサレム入京を明白にされて後、最初に手掛けられた 《 宮清め 》 の意義を学んだ。

ⅰ 主のかねてからの重荷の証を意味する。
主による 《 宮清め 》 は先ず、公的生涯の初めで行われた( ヨハネ 2章13~16節 )ので、二度目のこと。主が神殿の出入りを許された十二歳から、神殿の腐敗した状態に憂いておられたことの反映であり、生涯最後の受難週に入られるや、直ちに手掛けられたのが 《 宮清め 》 だったことでも然り。

ⅱ 主の聖父への愛の証を意味する。
ヨハネ 2章17節 「弟子たちは、『 あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす 』 と書いてあるのを思い起こした」とある。
それは、ルカ 19章46節 「彼らに言われた。『 わたしの家は祈りの家でなければならない 』 と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを 『 強盗の巣 』 にした。」という 《 聖父への冒涜を痛むという愛 》 であり、愛を形に現された。
神殿が聖別されておらず、世俗的に利用されていたから。
表向きは礼拝者の便宜を図ってのこと。礼拝に捧げる捧げ物は皆、無傷でなければならなかったことから、長旅でのリスクから解かれるというので利用していた純粋な礼拝者のその気持ちに乗じて、相当の利益を得ていた。ユダヤ人成人男子が一年毎に宮に納める半シェケルについても、通常通貨( ギリシア、ローマ貨幣 )をフェニキア硬貨に替える必要がある為、両替手数料15%を取る始末。

※ お互い、自分の為になら何か言うことがあっても、主の御名の為に、 《 重荷と愛 》 の故にという在り方は如何に !! と。


今朝は、都入りされた ※ 「イエスを殺そうと狙っていた」宗教家たち( 19章47節 )の慌てふためく姿とは極めて対照的な主のお姿に注目しながら、私たちの生き方に光を頂きたい。
20章全体は、宮清めの翌日に当たる火曜日でのこと。
主が、この殺意を露わに質問攻めで楯突いて来るユダヤ人指導者たちを相手に、権威をもって対応された記事である。
質問に対する主のお応えは、彼らの主への殺意を募らせることに。20章19節には「律法学者たちと祭司長たちは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいた。それでそのとき、イエスに手をかけて捕らえようとしたが、民を恐れた」とあり、20節では「機会を狙っていた彼らは、義人を装った回し者を遣わした。イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すためであった」とある。
最終的には、39、40節 「律法学者たちの何人かが、『 先生、立派なお答えです 』 と答えた。彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった」と 《 主への完全降参状態、太刀打ち出来ず 》 主の権威を認めざるを得なくされているのだ。

こうしたやり取りの初めに持って来られた ※ 20章2節 「イエスに言った。『 何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか。 』 」という質問に注目したい。彼らの質問に対する主の答えは、3、4節 「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。」だった。
主が出された質問に、彼らは戸惑った。
5~7節 「すると、彼らは論じ合った。『 もし天からと言えば、どうしてヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、もし人からと言えば、民はみな私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネは預言者だと確信しているのだから。 』 そこで、『 どこから来たのか知りません 』 と答えた」と、主からの思い掛けない質問に面食らった彼らは、何と惨めな有様だろうか !!
突き付けられた問いの前に、正直に答えられないのだ。
彼らは「もし・・・と言えば、・・・もし・・・と言えば」と、自分たちがとんでもない不利な事態に陥らないようにとの必死さだけで最終的には「知りません」と、無難な答えだった。
「もし」ヨハネの権威を天からのものだと言えば、何故 ? 悔い改めなかったのか ? と咎( とが )められ、「もし」唯の説教者に過ぎないと言えば、彼を尊敬する民たちから殺害されると !!
彼らの姿勢は、目の前に差し出された問題の前に、真剣に向き合おうとしない。静かに自分自身を探られようとはしない。
19節 「自分たちを指して語られたことに気づいた」とあるにも拘らず、光を避け続けるのが彼ら。
知らされた内的事実に蓋をして見ようとしない為、彼らの頑( かたく )なな罪の性質は、益々硬直状態になり、語る言葉に誠実さを欠き、いつでも保身の立場を常とすることになって行く。
その究極の恐ろしさは、宗教家で神を恐れると公言する者の現実がこの有様だというところにある。彼らの「知らない」に、主は ※ 8節 「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか・・・言いません。」だった。

宗教指導者の恐れは、主のこうした知恵ある対応にある。
彼らの期待は、2節 「何の権威によって・・・その権威を授けたのはだれなのか」に対する明確な答えだったが、不意を打つ答えしか返って来なかった。しかし主のこうした出方こそ賢明な返答だった。あえて答えるべきではない。何故なら主はこれまでずっと語り、その証をして来られたのだから。彼らは主を冒涜の罪で捕らえようとの罠を仕掛けて質問して来たに過ぎないのだから。
私たちの行動に、この見極めがあるのだろうか ?
主をしてこのような出方をさせたのは、ヤコブの手紙 3章13~18節にある ※ 17節 上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません」に他ならない。( 以下、同じくヤコブの手紙より )
3章13節 別訳 「あなたがたのうちで、誰が知恵のある、或いは賢い人ですか。知恵から来る謙遜を伴った彼の正しい行いを、そのことの実際の証拠となるようにしなさい」である。
この「上からの知恵」に対照的な知恵は、15節 「地上のもの、肉的で悪魔的なものです」とあり、正に、主に対抗する宗教家たちの知恵なのだ。
実に、14節 「苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい」と言われなければならない 《 地上の知恵 》 なのだ。

※ お互いの行動も、「上よりの知恵」によるのか、「地上の知恵」によるものなのか、悉( ことごと )く吟味されながらの日々を !!

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