聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 84


ルカの福音書19章1節~10節

先週は、「目が見えるようにしてください。」と主に求めて、主から ※ 42節 「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」と伝えられた 《 盲人の信仰 》 に学んだ。

ⅰ 主を、38、39節 「ダビデの子」、救い主と認めた信仰。
この称号はこの世の王としてのメシアを期待させ、大多数の人々がそうだった中、真に霊的に王なるお方として待望する少数の中の一人だった。

ⅱ 38節 「大声で、『 ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください 』 と言った」時、39節 「先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが」、その非難にもめげず、「ますます激しく」と、懸命に主の最善を求める信仰。
彼は、40節 「イエスは立ち止まって」、41節 「わたしに何をしてほしいのですか。」とのおことばを主から頂いた !!
何と彼は、「主よ。目が見えるようにしてください。」と !! 「道端に座り、物乞いを」する形態での生活しか考えられなかった彼が、主を「ダビデの子」と知ってからというもの、これまでのようにではなく積極的に御心を求め、そこに生きる者となる為にと、彼なりに抱いた最善が「見えるようにして」頂くことだと確信したからだったのでは ?
何と彼は、主の ※ 42節 「見えるようになれ」の一言で、43節 「その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った」というのだ。

※  “ 主の為に大いなることを求めよ ” とは、インド宣教に生涯を捧げたウィリアム・カーレーの言葉。主が認められたその信仰から光を受け、主の為に生きる信仰でありたい、と。


今朝は、主がエリコの町に入られて、あらかじめ会おうと心積もりしておられたザアカイと出会われた時のことに注目を。
このザアカイとは、2節によると「取税人のかしらで、金持ちであった」とあり、3、4節 「彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った」人として出て来る。
何とそのザアカイは、主から ※ 5節 「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」と、声を掛けられたのだ。
幸いにもザアカイは直ちに、6節 「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎え」、遂に、9節 「今日、救いがこの家に来ました」と、主との個人的な関係に導かれた。その時直ちに、8節 「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」と、これまでの生き方【「だれかから」とは、もしそうしていたのならという仮定的な意味ではなく、断定的な意味で「不正に税を取り立てていたので」と】情け知らずの貪欲から完全に方向転換して、生活が変えられた !!
方向転換するとは、今日までの生き方が、いかに誤っていたかを知った時、それを常軌を逸していたと認め、即ち、的外れな生き方・罪深い生活だったと認め、この事実を告白し、憎み、正されたいと赦しを乞い、赦しを信じる全てを意味する。赦しを得る為に、償( つぐな )いは無用【ローマ人への手紙 3章23~26節】なので、ザアカイの償いは、主の愛への感動故のものに過ぎない。

主は、このザアカイを「失われた者」と言われた。
それは、彼が、自らのこれまでの生き方に満足していなかった人だったことを意味している。
彼は人目を気にせず、大人げもなく、3節a’ 「背が低かったので、群衆のために見ることができなかった」、4節 「それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った」ここには、主への単なる好奇心からではなく、3節a 「どんな方かを見ようとした」とあり、噂で聞いていたからと思われるが、ここに彼の渇望が伺える !!
「失われた者」とは、自分ではこのままで良くないと知りつつも、自分でどうしたら良いのか ? 本能的に、造り主に帰りたいと思いながらも、帰り方が分からず、15章4節 「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」と言われるお方に見付け出して頂く必要のある者のこと。
ここで、19章10節 「失われた者を捜して救うために来」られたと証された主に注目して、Message としたい。

① 5節 「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。『 ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。 』 」と、個人的にその人の必要を知って近づかれるお方。

主が、「ザアカイ、・・・降りて来なさい」と言われたのは、英訳 「for today I must stay at your house. ( 泊まらなければならない )」とは !! 主のご意志の強さが伝えられていて、主の一人の失われた者への情熱を見る。
主は、私たちを個々に知って捜しておられる。ヤコブの井戸に腰を下ろして、一人のサマリア人を待っておられたあの時の主のお気持ちも同様なのだ。ヨハネの福音書 4章4節 詳訳 「サマリヤを通って行かれる必要があった」と。
ザアカイの必要も、サマリアの婦人の必要も、主ご自身の最大の関心事であり、その人個人の問題ではないからだ。
ペテロの手紙 第一 2章21~25節に主の心がある。「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため」と。

② 7節 「人々はみな、これを見て、『 あの人は罪人のところに行って客となった 』 と文句を言った」とあるが、非難に動揺せず、淡々とご自身の確信する所に生きられるお方。

ザアカイは、主の招きに直ちに応じて、6節 「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎え」て救われた。
実際主は、「失われた者」を捜しておられると学んだが、悲しいことには、ザアカイを罪人呼ばわりする人々には、自らの失われた者であるとの自覚がない為に、与り得ない現実がある。何故なら、ザアカイの悪事にばかり関心を抱き、自らの内的必要に目を向けないからである。彼らは、ザアカイだけでなく、「罪人のところに行って客となった」主の行動が気になり、罪人に対する扱いに不満を抱く始末。
何と !! 彼らとは対照的に、ザアカイも又、人目を憚( はばか )らない主に同様、7節の非難を耳にしつつも、8節 「しかし」と、躊躇せずに信仰告白している !!

※ 主に尋ねられ、見出されたのが、私たちであるとは !!

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