ルカの福音書18章35節~43節
先週は、エルサレム入りを目前にされた主が、31節 「十二人をそばに呼んで」ご受難の予告をされ( これで三度目となる )、驚くべきことには、34節 「弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった」という事実に注目した。
何故、主の語られていることが、彼らには「隠されて」いたのだろうか ? 何が、主の語られていることを彼らには分からなくさせていたのだろうか ? この問題の原因を突き止めることは、聖書を手にさせて頂き、主の御心を知りたいと願っている私たちにとっても、賢明なことである !! と。
彼らが主の弟子として従う生活に入ってはいるものの、心の深い部分において、未だ 《 主が、見苦しい死を遂げるなんて、以ての外 》 といった肉性が優位を占めていたから。
彼らが主から初めてご自身の受難について聞かされた時に取った態度、マタイ 16章22、23節で明瞭。主は、彼に、『 人間の本性に属することを考えている 』 と叱責された。
世的にもてはやされることへの執着心が強くなれば、霊的関心は希薄になる。主の今日的み思いが何で ? 主の関心事が何で ? 重荷も分からないという現実。従って、その肉性の処理に比例して主の御心が分かるようにされる !!
イザヤ書 6章に見られる預言者イザヤの霊的経験で顕著。
彼は、5節 「ああ、私は・・・」と内的汚れを知って叫んだ時、血潮による清めの霊的経験に導かれ、8節の「だれを・・・」との主の声に触れ、「ここに私がおります・・・」と応えたのだ。
※ 肉性の清めに比例して、主の今日的声を聞き、重荷を共にする者とされるとの事実を覚えて、ここに与りたいと。
今朝は、35節 「イエスがエリコに近づいたとき、一人の目の見えない人が道端に座り、物乞いをしていた」その彼が、遂には、42節 「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救い【詳訳 : 癒され】ました。」という記事に学びたい。主から「あなたの信仰があなたを救いました」と言われた 《 彼の信仰 》 とは ?
① 主を、38、39節 「ダビデの子」と呼ぶ信仰。
彼はこれまでの主の働きを耳にし、主を「ダビデの子」、即ち、救い主と認めて信仰に立っていた。この「ダビデの子」とはメシアの称号で、旧約・新約共に、この事実を明確にしている。
イザヤ書 9章6、7節 「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は 『 不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君 』 と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」/ローマ人への手紙 1章2~4節 「・・・御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」と。
この称号は、多くの人々にこの世の王としてのメシアを期待させることにもなっていたが、真に霊的に王なるお方として待望する人々が居た。ヨハネの福音書 7章40~42節 「・・・キリストはダビデの子孫から・・・出ると、聖書は言っている」と。
彼は、多くの人々が主の働きを見聞きしても主を「ダビデの子孫」であるとは認めず、唯、自分たちのユダヤ国の王としてしか認めない中、このメシア信仰を持って出て来たのだ。主の弟子たちですらこの世的な望みを持って主に従っていたことを考える時、彼の信仰は素晴らしい !!
彼は、「ダビデの子のイエス様」とお呼びすると、39節 「先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめた」という厳しい状況に置かれたが、何と主はその人々の排斥行為を退け、40節 「立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた」。何故ならば、彼のその信仰を喜ばれたからである !!
② 38節 「大声で、『 ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください 』 と言った」、39節 「先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく 『 ダビデの子よ、私をあわれんでください 』 と叫んだ」とあるように、心無い人々からの非難にもめげず、あきらめず、むしろ「ますます激しく」と、懸命に主の最善を求める信仰。
40節 「イエスは立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた」ここに、彼の信仰を喜ばれた主のお心を見たが、そうであるのと同時に、41、42節とは、その時 《 連れて来られた彼と主との会話 》 であるが、彼の主を期待する信仰を喜ばれたのを見る。41節 「わたしに何をしてほしいのですか。」に、「主よ。目が見えるようにしてください。」だった。
彼の生活振りは、35節 「道端に座り、物乞いをしていた」とあるが、このままの生活で良いとは思わなかったのだ。
自らの現状に甘んずることなく、もし主に求めるところを良しとして下さるならばと、積極的に改善を求める意欲である。主が彼の求めに直ちに応じて下さった事実を見る時、彼の〈 求める動機 〉が純潔だったのを見る。ヤコブの手紙 4章2、3節 「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。・・・自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです」。
その動機の純潔も、主を「ダビデの子」と信じるまでは、自らの境遇について受け身でしかなく、「道端に座り、物乞いを」する形態での生活しか考えられなかったのでは ?
しかし主を「ダビデの子」として知ってからというもの、これまでのようにではなく積極的に御心を求め、そこに生きる者となる為にと、彼なりの最善が「見えるようにして」頂くことだと確信したのでは ?
何と彼は、主の ※ 42節 「見えるようになれ」の一言で、43節 「その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った」のだ。ツァラアトから癒やされた10人の内、癒やされたこと自体を喜んだ9人のユダヤ人ではなく、癒やされたことを感謝する為に戻って来たサマリア人のように( ルカ 17・11~ )、主の御心に従う生涯に導かれた !!
※ “ 主の為に大いなることを求めよ ” とは、インド宣教に生涯を捧げたウィリアム・カーレーの言葉。主が認められたその信仰から光を受け、主の為に生きる信仰でありたい。
先週は、エルサレム入りを目前にされた主が、31節 「十二人をそばに呼んで」ご受難の予告をされ( これで三度目となる )、驚くべきことには、34節 「弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった」という事実に注目した。
何故、主の語られていることが、彼らには「隠されて」いたのだろうか ? 何が、主の語られていることを彼らには分からなくさせていたのだろうか ? この問題の原因を突き止めることは、聖書を手にさせて頂き、主の御心を知りたいと願っている私たちにとっても、賢明なことである !! と。
彼らが主の弟子として従う生活に入ってはいるものの、心の深い部分において、未だ 《 主が、見苦しい死を遂げるなんて、以ての外 》 といった肉性が優位を占めていたから。
彼らが主から初めてご自身の受難について聞かされた時に取った態度、マタイ 16章22、23節で明瞭。主は、彼に、『 人間の本性に属することを考えている 』 と叱責された。
世的にもてはやされることへの執着心が強くなれば、霊的関心は希薄になる。主の今日的み思いが何で ? 主の関心事が何で ? 重荷も分からないという現実。従って、その肉性の処理に比例して主の御心が分かるようにされる !!
イザヤ書 6章に見られる預言者イザヤの霊的経験で顕著。
彼は、5節 「ああ、私は・・・」と内的汚れを知って叫んだ時、血潮による清めの霊的経験に導かれ、8節の「だれを・・・」との主の声に触れ、「ここに私がおります・・・」と応えたのだ。
※ 肉性の清めに比例して、主の今日的声を聞き、重荷を共にする者とされるとの事実を覚えて、ここに与りたいと。
今朝は、35節 「イエスがエリコに近づいたとき、一人の目の見えない人が道端に座り、物乞いをしていた」その彼が、遂には、42節 「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救い【詳訳 : 癒され】ました。」という記事に学びたい。主から「あなたの信仰があなたを救いました」と言われた 《 彼の信仰 》 とは ?
① 主を、38、39節 「ダビデの子」と呼ぶ信仰。
彼はこれまでの主の働きを耳にし、主を「ダビデの子」、即ち、救い主と認めて信仰に立っていた。この「ダビデの子」とはメシアの称号で、旧約・新約共に、この事実を明確にしている。
イザヤ書 9章6、7節 「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は 『 不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君 』 と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」/ローマ人への手紙 1章2~4節 「・・・御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」と。
この称号は、多くの人々にこの世の王としてのメシアを期待させることにもなっていたが、真に霊的に王なるお方として待望する人々が居た。ヨハネの福音書 7章40~42節 「・・・キリストはダビデの子孫から・・・出ると、聖書は言っている」と。
彼は、多くの人々が主の働きを見聞きしても主を「ダビデの子孫」であるとは認めず、唯、自分たちのユダヤ国の王としてしか認めない中、このメシア信仰を持って出て来たのだ。主の弟子たちですらこの世的な望みを持って主に従っていたことを考える時、彼の信仰は素晴らしい !!
彼は、「ダビデの子のイエス様」とお呼びすると、39節 「先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめた」という厳しい状況に置かれたが、何と主はその人々の排斥行為を退け、40節 「立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた」。何故ならば、彼のその信仰を喜ばれたからである !!
② 38節 「大声で、『 ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください 』 と言った」、39節 「先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく 『 ダビデの子よ、私をあわれんでください 』 と叫んだ」とあるように、心無い人々からの非難にもめげず、あきらめず、むしろ「ますます激しく」と、懸命に主の最善を求める信仰。
40節 「イエスは立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた」ここに、彼の信仰を喜ばれた主のお心を見たが、そうであるのと同時に、41、42節とは、その時 《 連れて来られた彼と主との会話 》 であるが、彼の主を期待する信仰を喜ばれたのを見る。41節 「わたしに何をしてほしいのですか。」に、「主よ。目が見えるようにしてください。」だった。
彼の生活振りは、35節 「道端に座り、物乞いをしていた」とあるが、このままの生活で良いとは思わなかったのだ。
自らの現状に甘んずることなく、もし主に求めるところを良しとして下さるならばと、積極的に改善を求める意欲である。主が彼の求めに直ちに応じて下さった事実を見る時、彼の〈 求める動機 〉が純潔だったのを見る。ヤコブの手紙 4章2、3節 「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。・・・自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです」。
その動機の純潔も、主を「ダビデの子」と信じるまでは、自らの境遇について受け身でしかなく、「道端に座り、物乞いを」する形態での生活しか考えられなかったのでは ?
しかし主を「ダビデの子」として知ってからというもの、これまでのようにではなく積極的に御心を求め、そこに生きる者となる為にと、彼なりの最善が「見えるようにして」頂くことだと確信したのでは ?
何と彼は、主の ※ 42節 「見えるようになれ」の一言で、43節 「その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った」のだ。ツァラアトから癒やされた10人の内、癒やされたこと自体を喜んだ9人のユダヤ人ではなく、癒やされたことを感謝する為に戻って来たサマリア人のように( ルカ 17・11~ )、主の御心に従う生涯に導かれた !!
※ “ 主の為に大いなることを求めよ ” とは、インド宣教に生涯を捧げたウィリアム・カーレーの言葉。主が認められたその信仰から光を受け、主の為に生きる信仰でありたい。
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