聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 82


ルカの福音書18章31節~34節

先週は、主が言われた「子どものように」とは相容れない 《 一人の ※ 18節 「指導者」を扱われた扱い 》 に注目した。
主は、18節 「永遠のいのちを受け継ぐ」為に、「何をしたら・・・」と尋ねて来た彼に、「戒めを守りなさい」と言われ、20節では、対人関係における戒めを示された。主の言われた「守りなさい」とは、 《 守れれば良い 》 の意味でではない。 《 戒めによって自らの正体を知り、何が出来る者かではなく、何者か ? 》 を知って謙ることが出来るように、であると。
何と !! 彼はためらいもなく「守ってきました」と言った。主は【マルコ 10章21節 「彼を見つめ、いつくしんで」と】、22節 《 根本的・本質的な欠け 》 を知らせる為、「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい」と言われた。それは彼が、実は「戒めを守」れてはいない自らを知る必要があったから。
23節 「大変な金持ちだった」彼は、「これを聞いて、非常に悲しんだ」。彼は富に執着し、貧しい者への配慮( 申命記 15章7~11節 )を好まなかったからだ !!
彼は自らの正体、神の聖前に罪深い者との自覚に立ち、正直に告白するよう促されたが、彼は求めながらも主の許を離れた。もし彼が自らの実情を告白し、謙れば、27節 「人にはできないことが、神にはできる」のだ。

※ これを聞いた弟子たちは、28節 「ご覧ください」と、意気揚々と言って来たが、マタイ 19章30節 「しかし、・・・後にいる多くの者が先になります」の余韻を残されたお心には留意して従いたい、と。


今朝は、エルサレム入りを目前にされた主が、31節 「十二人をそばに呼んで」、ご受難を予告された記事に注目する。
主の予告は、31b~33節 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲( あざけ )られ、辱( はずかし )められ、唾をかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」だったが、弟子たちの受け止めは、どうだったのだろうか。
受難の予告について聞かされたのは、ここで三度目のこと。
先ずは五つのパンと二匹の魚による奇跡後、弟子たちが主を「神のキリストです」との告白直後、9章21、22節 「するとイエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じられた。そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた」と。
二度目は、変貌山から下りるや、てんかんの少年を癒やした奇跡後、9章44節 「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」と。そしてここで、三度目となる。19章は、エリコに入られた時の出来事になるので、エルサレムまで直線距離で20キロ、残すところ僅かな地点まで、旅が続けられた時のこととなる。
主は、予告の内容は極めて非人道的・理不尽な扱いではあるが 《 預言通りに実現する 》 と明言された。

その預言の代表的記事は 《 イザヤ書 53章、詩篇 22篇 》 であるが、( 今はお開きせずに )ここで考えたいことは、34節a 「弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった」という事実である。
驚くべきことではあるが、その理由が、34節b 「彼らにはこのことばが隠されていて話されたことが理解できなかった」からである、とある !!
何故、主の語られていることが、彼らには「隠されて」いたのだろうか ? 何が、主の語られていることを彼らに分からなくさせていたのだろうか ?
この問題の原因を突き止めることは、聖書を手にさせて頂き、主の御心を知りたいと願っている私たちにとっても、賢明なことではないか !!
考えられることは、彼らが主を信じ、弟子として従う生活に入ってはいるものの、心の深い部分において、未だ肉性が優位を占めていることにあるのでは ? 彼らにとって 《 主が、見苦しい死を遂げるなんて、以ての外 》 だったからである。
彼らは、主から初めてご自身の受難について聞かされた時、どのような態度を取ったかを見れば分かる。
マタイの福音書 16章21~23節に言及されている。
22節 詳訳 「【すると】、ペテロはイエスとひそかに話す為にイエスをわきへ引き寄せて、『 主よ、断じて駄目です。そんなことがあなたに決して起こってはなりません 』 と言って、厳しくイエスを責め〈 非難し 〉始めた」とある。ペテロのこの態度が、どのような動機によるものだったかは、その彼を扱われた主のおことばで明白である。
23節 詳訳 「しかしイエスは【ペテロから】顔を背けて、彼に言われた。『 サタンよ。わたしの後ろに退け。お前はわたしの妨げだ〈 わたしにとって躓( つまず )き、妨害、罠だ 〉。お前は神のご本性【ご性質】に属することではなくて、人間の本性に属することを考えている 』 」とある。
ペテロを初め、弟子たち皆の期待していたことは、使徒の働き 1章6節 「イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」に顕著であり、主が王として君臨される時、栄誉ある立場に着くことだった。

世的にもてはやされることへの執着心が強くなれば、霊的関心は希薄になる。主の今日的み思いが何であるのか ? 主が求めておられることへの関心も、重荷としておられることが何であるのかについても分からないという事なのだ。従って、その肉性の処理に比例して主の御心が分かるようにされる !!
イザヤ書 6章に見られる預言者イザヤの霊的経験で顕著。この記事は、彼の今までの預言者としての献身は何だったのか ? 8節の「だれを・・・」との主の声は新しく、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と応えたのだ。それは彼が、5節 「ああ、私は・・・」と神の聖なる臨在によって自らの汚れを知らされ、告白後、6、7節 「・・・あなたの咎( とが )は取り除かれ、あなたの罪も赦された」との霊的経験に与ったからだ。
一にも二にも、肉性がきよめられ続けることによって、主の語られるところが分かるようにされるというのだ。

※ 主の今日的声に聞ける、重荷を共にする者でありたい。

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