聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 75


ルカの福音書17章5節~10節

前回の 《 連講74回 》 は、主が弟子たちに、3節 「自分自身に気をつけなさい」と警告された二つのことに注目した。

ⅰ 1、2節 《 つまずき 》 の問題。
1節 詳訳は、「誘惑【罪に誘う為に仕掛けられた罠、落とし穴】は必ず来る【何時も付きまとっている】。しかし、それをもたらす【来させる】人はわざわいだ」とある。
「つまずきをもたらす者」に対して、2節b 「・・・海に投げ込まれる」刑罰が相応しいという厳しさであるが、それは、隣人を神に近付かせないからだ。詩篇 73篇アサフの告白を見た。

ⅱ 3b~4節で「兄弟が罪を犯した」場合の 《 赦し 》 の問題。
a. 3節b 「戒めなさい」に従うこと。
親身に関わることによって愛の戒めに叶うと。
b. 3節b’ 「そして悔い改めるなら、赦しなさい」、しかも、4節 「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て 『 悔い改めます 』 と言うなら、赦しなさい」に従うこと。
この「赦しなさい」は、相手が赦しを求め、悔い改めることによって初めて成立する恵みであり、この「 『 悔い改めます 』 と言うなら」を見逃してはならない。主は「悔い改めます」と言って来るならば、一日に何度であってもと。
何故なら、既に私たちが、主の 《 十字架による無代価で与えられた赦し 》 を経験させて頂いているからである。
これら赦しの根拠は、ヨハネの手紙 第一 4章7~12節 「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら」だから。

※ これらの警告は 《 主の愛で生きる者 》 への招きであると。


今朝は、主から 《 二つの警告、つまずきをもたらす者にならないこと & 罪を赦す者となるように 》 を受けた弟子たちが、5節 「私たちの信仰を増し加えてください」と尋ねた時に答えられた主のおことばに学びたい。
弟子たちから、こうした質問が出て来たことは幸いです。
つまずかせ兼ねない自らの現実があり、赦すことの難しさを覚えたからではと考えられる。現に、マタイの福音書 19章13、14節を見ると、主のみもとに連れて来られた子どもたちを叱っており、主から、「わたしのところに来るのを邪魔してはいけません」と注意されているのだから。
お互いも又、味わったおことばがこの一週間、実践する上でどうだったのだろうか ?
その弟子たちの質問は、無力な原因を 《 自らの信仰不足 》 から出たものと思ったようだ。しかし主のお答えは、6節 「からし種ほどの信仰があれば」と、信仰の量的問題ではなく、質的問題、即ち、どのような信仰で生活しているかにあった。
からし種は、マタイの福音書 13章32節 「どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作る・・・」とあり、持っている信仰に 《 健全な生長を遂げるいのち 》 があるかどうかが問われている。
( ルカの17章に戻って )もしあなたがた持っている信仰にいのちがあるならば、ありさえすれば、そこに、6節b 「この桑の木に 『 根元から抜かれて、海の中に植われ 』 と言うなら、あなたがたに従います」という 《 信仰による結実 》 を見ることになるのだと。

健全な成長を遂げる、即ち、主の語られるところに生活させる 《 いのちある信仰 》 とは ? 主は、7~9節 《 主人に仕えるしもべ 》 の姿を持ち出されて、10節 「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『 私たちは取るに足りないしもべです・・・ 』 と言いなさい」に従った信仰だと。

① 「取るに足りないしもべ」と言う者だろうか ?

探られる幾つかの場面がある。7節 「野から帰って来たら、『 さあ・・・食事をしなさい 』 と言うでしょうか」と、労( ねぎら )いのないこと。
8節 「むしろ、『 私の夕食の用意をし・・・ 』 と言うのではないでしょうか」と、しもべには、次の仕事が待っており、言い訳なしに仕えることが求められていること。
又、8節b’ 「 『 ・・・おまえはその後で食べたり飲んだりしなさい 』 と言うのではないでしょうか」と、全ての求めに応じて後に初めて、自らの必要を満たすことになること。
しかも、9節 「しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか」とは、したことへの報い( 感謝されることすら )を当てにしないこと。
更には、10節b 「 『 ・・・なすべきことをしただけです 』 と言いなさい」とあるように、したことは当然で特別ではなく、有り難がられたり、褒められたりされるようなことでは全くないとする謙虚さが求められている。
「取るに足りないしもべ」との告白は、これらの扱いに甘んじられる者のみが口にすることの出来る告白なのだが、私たちはどうだろうか ?

② 「取るに足りないしもべです」と言わせないのは何 ?

それは、これら日常茶飯事の場面で甘んじられないとする 《 内的・霊的 》 問題、即ちプライドである。
主の最後の晩餐での出来事、ヨハネの福音書 13章1~5節は実に、このことを明らかにしているのでは ? ここでしもべとなって、弟子たちの足を洗われたのは主であって、弟子たちではなかった。主が立ち上がられるまで、誰一人として兄弟たちの足を洗おうともせず、主の足をすら !! この場での弟子たちの会話は、この時ですら、「自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか・・・ ルカの福音書 22章24節」だったのだから。

③ 「取るに足りないしもべです」と言える者となるには ?

主が、10節 「同じようにあなたがたも、・・・言いなさい」と言われても、そのようには出来ない自らの現状・現実を認めて謙ること。
その上で、ルカの福音書 22章25~27節 「・・・しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています」という生涯を送ってくださった事実に目を向けること。
誰の為 ? 私に仕える者となってくださったのは、ピリピ人への手紙 2章5~11節 「・・・ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。・・・すべての舌が・・・告白して・・・」と、私たちの救いの為にである。しもべの姿を取らせない頑( かたく )なな自我を十字架につけて清めに与り続けることである。

※ その様にして初めて、隣人への愛に生きる者とされる。

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