ペンテコステ記念礼拝


使徒の働き2章37節~47節

今朝は、2章1節 「五旬節【大麦の初穂の束を捧げる日から数えて50日目( 復活後50日目 )、小麦の刈り入れの祭・初穂の日と呼ばれる、ユダヤ人が祝う三大祭の一つとして記念されていた日】」に、聖霊が注がれた画期的な出来事を記念する礼拝であるが、この出来事が、折しも三大祭の一つとして記念される日に起こったことは偶然ではない。
それはこの祭りの為にと、5~13節 「天下のあらゆる国々から来て住んでいた」人々の目撃するところとなったからである。目撃者たちの反応は 《 6節 「呆気にとられ」、7節 「驚き、不思議に思って」、8節 「いったいどうしたことか」、11節 「あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」、12節 「驚き当惑して」、13節 「だが、『 彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ 』 と言って、嘲( あざけ )る者たちもいた」 》 という興奮状態である !!
《 どのような意味で、画期的な日 》 なのか ?
単に、キリスト教会において重要事だというのではなく、実は人類にとって祝福の日となったからである。
このことについて、十字架の死から復活された主が、弟子たちに語られた ※ ルカの福音書 24章44~49節で明らかである ⇒ 47節 「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことになったからである。
主の弟子たちは、聖霊を授けられさえすれば証人となって出て行く為に備えられていた人々だったから。
何と !! 待ちに待たれていたその日が、2章1~4節 「・・・すると皆が聖霊に満たされ・・・」と、ここに来たのだ。

そして、41、42節 「その日、三千人ほどが仲間に加えられた。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」と、ここエルサレムに教会の産声が上がった記念日なのだ。
こうして聖霊に満たされた弟子たちと教会が、当時の世界を制覇していたローマ帝国( 皇帝礼拝を強いる )を相手に、迫害をものともせずに福音宣教を開始した日でもある。
そして今日までの二千年間( この世の勢力に屈することなく )教会は、1章8節 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」が現実となり、全世界は福音を知ることになったのだ。
世界の言語約7000( 3300翻訳あり/2450進行中/1800未 )。
残念ながら、宣教の働きが最も盛んだった 《 宣教時代と言われた18、19世紀 》 後の20、21世紀は ?
ヨハネの黙示録 3章14~22節 「あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出す。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、・・・だから熱心になって悔い改めなさい」との警告があり、宣教の終わりを急いでいるのが今日なのだ。

しかし今朝は、こうした主の警告を耳に留めつつ、世界がこの画期的な日を迎えて、今、宣教の責任を担っている教会である私たちは、今日までの宣教が許されて来た 《 初め 》 に注目して挑戦を頂きたい。

① 聖霊に満たされたペテロの存在。

ペテロが、14節 「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい」と、声を張り上げて語っているとは、人間的にはとてもとても考えられない光景 !!
何故ならば、ペテロは、主が捕縛されて裁判に向かわれる途中、主の行方を案じて後を追う時のこと、「この人はナザレ人イエスと一緒にいました」、「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる」と声を掛けられて、滅相もない、「嘘ならのろわれてもよい」と誓い始め、「そんな人は知らない」と叫ぶ臆病者だったのだから( マタ 26・69~ )。
ペテロには、主を命懸けで守ろうとの熱意は人一倍あったが、いざその機会を迎えるに及んでは、その情熱は跡形もなく消え失せ、自らの命を守る為に主を否んだのだから。
あの時のペテロを知っている人々の内、一体誰が、この力に満ち満ちたペテロを想像することが出来ようか !!
ペテロは変えられたのだ。あの拒絶の日から、日数的には、たった50日余りしか経っていない。何が彼を変えたのか ?
聖霊に満たされたという理由しかない。
ペテロの側でしたことは唯、1章4節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」に従っただけ。ということは、3節で復活された主を経験したからといって、その喜びのまま出掛けずに、先ずは聖霊を受ける経験に与ることだった。
聖霊の満たしの為には 《 空しくなること ⇒ ペテロは主を否んだ時、自らの自己中心性を激しい痛みの中で思い知らされ、自信が打ち砕かれ、徹底的な悔い改めに導かれることとなった 》。
聖霊経験は、この痛みの経験に比例している。宣教の鍵は、教会に何人、聖霊に満たされた人がいるのか ? にある。

② 心を刺されることを知った人々の出現と存在。

聖霊に満たされたペテロの説教は、聞く人々の心を刺した。3節 「炎のような舌が」とあるのは、聖霊の働きが 《 人々に熱と光 》 の作用をもって臨むことの象徴である。
彼らは、37節 「どうしたらよいでしょうか」と叫ばずには居られなくされた。取り返しの付かないことへの恐怖、このままでは生きて行くことが出来ないとの不安感に襲われた。
自らの正体を暴かれることは恐怖であるが、今生きている間に自らを知って、38節 「悔い改め」に与る者は幸い。何故なら、やがての日があるから ⇒ へブル人への手紙 9章27、28節。

③ 生きた教会の存在。

心刺された人々は、41~47節 「バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた・・・神を賛美し、民全体から好意を持たれていた」との教会生活を始めた。

※ 間もなく、この群れを妬む宗教家たちによって迫害されることになるが、初代教会に始まった宣教の火は消されずに燃え続けて今日に至っている。私たちも責任を担って派遣を。

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