ルカの福音書17章1節~4節
先週は、16章14節 「金銭を好むパリサイ人たち」の金銭を愛する生き方の結末がどうなるのかを明らかにして、主が彼らに警鐘を鳴らされた記事に学んだ。
この事実に、ローマ人への手紙 6章23節 「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」の聖句を解説と見て考えた。この聖句の「死」は、《 肉体の死 》 のことではなく 《 彼らの肉体の死後、何処に身を置くのか ? 》 即ち、ルカの福音書 16章23節、《 よみ ⇒ ※ 「ハデス」という「死」 》 か、《 ラザロが居る ※ 22節 「アブラハムの懐」 》 か、であると。
ⅰ 富める者の生き様は ?
19~21節に明らか。ヨハネの手紙 第一 3章17節 「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか」とある。隣人に対する無関心さ。
その自己中心は、自分の為には、24節 「私をあわれんでラザロをお送りください」、27~31節 「ラザロを私の家族に送ってください」と求める厚かましさにも現れている。
ⅱ この恐るべき自己中心の罪が「報酬は死」との結果を。
24節 「私はこの炎の中で苦しくてたまりません」、25節 「苦しみもだえている」とは、黙示録 21章8節に出て来る「第二の死」で、永遠の悔いの中で生き続ける。
※ ローマ人への手紙 6章23節 「罪の報酬は死です。しかし」とは驚くべき贖( あがな )い !! 主の言われた ※ 「わたしは渇く」とは( ヨハ 19・28 )、私たちに代わって神の呪いを味わわれた地獄の叫び。自らの罪を悔い改めた者が永遠のいのちに与る為の叫びとは !! と。
今朝は、主が弟子たちに、17章3節 「自分自身に気をつけなさい」と仰って警告された二つのことに注目したい。
1節 「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです」と、3節b 「兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい」とで、お互いの身近な今日の問題として注意深く学びたい。
① 1、2節 《 つまずき 》 の問題。
1節 詳訳は、「誘惑【罪に誘う為に仕掛けられた罠、落とし穴】は必ず来る【何時も付きまとっている】。しかし、それをもたらす【来させる】人はわざわいだ」とある。
主が言われたこの「わざわいだ」という言葉は、霊的滅亡をもたらすかなり厳しく強い意味を持っていると言われているが、この事実を裏付ける聖句が、2節 「・・・海に投げ込まれるほうがましです」、即ち、「それが相応しい」とある限り、実に、厳しい刑罰なのだ。二度と海面に引き上げられることはない極悪の者としての扱いがここにある。
「つまずきをもたらす者」とは、相手【ここでは、「これらの小さい者たちの一人を」とあるが、未だに支えを必要としている人々】 に罪を犯させる者の意。主は、弟子たちに、そのような人にならないようにとの警告を与えられた。
何故、「つまずきをもたらす者」に対する報いが厳しいのか ?
隣人を神に近付かせないからだ。11章52節 「わざわいだ、律法の専門家たち。・・・自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ」とある、ここに理由がある。
詩篇 73篇にアサフの告白を見てみたい。1、2節で彼は、神に不信感を抱き、「私の歩みは滑りかけた」と言っている。3節 「それは・・・」と、あたかも神を畏れない人々が祝福を受け、神の子らがむしろそうではないからだ ⇒ 12節 「彼らはいつまでも安らかで、富を増している」、ところが、14節 「私は、休みなく打たれ、朝ごとに懲らしめを受けた」と。
その時、アサフは “ はっ ” とした。15節 「もしも私が 『 このままを語ろう 』 と言っていたなら きっと私は あなたの子らの世代を裏切っていたことだろう」と。神への疑いを自分の内に秘め、それを口にしなくて良かったとの安堵感。17節 「ついに私は神の聖所に入って」神の真実を知ったというのだ。彼の隣人に対する魂の重荷が、彼をして「つまずきをもたら者」とならずに、乗り越えさせたのだ。
② 3b~4節 《 赦し 》 の問題。
主は「兄弟が罪を犯した」場合の在り方を語られた。
a. 3節b 「戒めなさい」に従うこと。
1節 「つまずきが起こるのは避けられませんが」とあることから、誘惑に負けた兄弟に対する態度としての忠告である。
マタイの福音書 18章15~20節では、「行って二人だけのところで」、「もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に」、「それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい・・・」と、何と、懇( ねんご )ろな係わりを進めていることか !
何故なら、そうすることによって魂を神に導くことこそ、教会に与えられた責任であり、その祈りは答えられるから。
ガラテヤ人への手紙 6章1、2節では、「もしだれかが何かの過ちに陥( おちい )っていることが分かったなら・・・柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります」とあり、ここにこそ 《 主に在る愛の実践 》 があると言っている。
親身に関わることが愛の戒めに叶うと。
b. 3節b’ 「そして悔い改めるなら、赦しなさい」、しかも、4節 「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て 『 悔い改めます 』 と言うなら、赦しなさい」に従うこと。
この「赦しなさい」は、相手が赦しを求め、悔い改めることによって初めて成立する恵みであり、この「 『 悔い改めます 』 と言うなら」を見逃してはならない。主は「悔い改めます」と言って来るならば、一日に何度であってもと。
何故なら、既に私たちが、主の 《 十字架による無代価で与えられた赦し 》 を経験させて頂いているからである。
ヨハネの手紙 第一 4章7~12節 「私たちは互いに愛し合いましょう・・・私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥( なだ )めのささげ物としての御子を遣わされました・・・神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです」と。
※ これらの警告は 《 主の愛で生きる者 》 への招きである !!
先週は、16章14節 「金銭を好むパリサイ人たち」の金銭を愛する生き方の結末がどうなるのかを明らかにして、主が彼らに警鐘を鳴らされた記事に学んだ。
この事実に、ローマ人への手紙 6章23節 「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」の聖句を解説と見て考えた。この聖句の「死」は、《 肉体の死 》 のことではなく 《 彼らの肉体の死後、何処に身を置くのか ? 》 即ち、ルカの福音書 16章23節、《 よみ ⇒ ※ 「ハデス」という「死」 》 か、《 ラザロが居る ※ 22節 「アブラハムの懐」 》 か、であると。
ⅰ 富める者の生き様は ?
19~21節に明らか。ヨハネの手紙 第一 3章17節 「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか」とある。隣人に対する無関心さ。
その自己中心は、自分の為には、24節 「私をあわれんでラザロをお送りください」、27~31節 「ラザロを私の家族に送ってください」と求める厚かましさにも現れている。
ⅱ この恐るべき自己中心の罪が「報酬は死」との結果を。
24節 「私はこの炎の中で苦しくてたまりません」、25節 「苦しみもだえている」とは、黙示録 21章8節に出て来る「第二の死」で、永遠の悔いの中で生き続ける。
※ ローマ人への手紙 6章23節 「罪の報酬は死です。しかし」とは驚くべき贖( あがな )い !! 主の言われた ※ 「わたしは渇く」とは( ヨハ 19・28 )、私たちに代わって神の呪いを味わわれた地獄の叫び。自らの罪を悔い改めた者が永遠のいのちに与る為の叫びとは !! と。
今朝は、主が弟子たちに、17章3節 「自分自身に気をつけなさい」と仰って警告された二つのことに注目したい。
1節 「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです」と、3節b 「兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい」とで、お互いの身近な今日の問題として注意深く学びたい。
① 1、2節 《 つまずき 》 の問題。
1節 詳訳は、「誘惑【罪に誘う為に仕掛けられた罠、落とし穴】は必ず来る【何時も付きまとっている】。しかし、それをもたらす【来させる】人はわざわいだ」とある。
主が言われたこの「わざわいだ」という言葉は、霊的滅亡をもたらすかなり厳しく強い意味を持っていると言われているが、この事実を裏付ける聖句が、2節 「・・・海に投げ込まれるほうがましです」、即ち、「それが相応しい」とある限り、実に、厳しい刑罰なのだ。二度と海面に引き上げられることはない極悪の者としての扱いがここにある。
「つまずきをもたらす者」とは、相手【ここでは、「これらの小さい者たちの一人を」とあるが、未だに支えを必要としている人々】 に罪を犯させる者の意。主は、弟子たちに、そのような人にならないようにとの警告を与えられた。
何故、「つまずきをもたらす者」に対する報いが厳しいのか ?
隣人を神に近付かせないからだ。11章52節 「わざわいだ、律法の専門家たち。・・・自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ」とある、ここに理由がある。
詩篇 73篇にアサフの告白を見てみたい。1、2節で彼は、神に不信感を抱き、「私の歩みは滑りかけた」と言っている。3節 「それは・・・」と、あたかも神を畏れない人々が祝福を受け、神の子らがむしろそうではないからだ ⇒ 12節 「彼らはいつまでも安らかで、富を増している」、ところが、14節 「私は、休みなく打たれ、朝ごとに懲らしめを受けた」と。
その時、アサフは “ はっ ” とした。15節 「もしも私が 『 このままを語ろう 』 と言っていたなら きっと私は あなたの子らの世代を裏切っていたことだろう」と。神への疑いを自分の内に秘め、それを口にしなくて良かったとの安堵感。17節 「ついに私は神の聖所に入って」神の真実を知ったというのだ。彼の隣人に対する魂の重荷が、彼をして「つまずきをもたら者」とならずに、乗り越えさせたのだ。
② 3b~4節 《 赦し 》 の問題。
主は「兄弟が罪を犯した」場合の在り方を語られた。
a. 3節b 「戒めなさい」に従うこと。
1節 「つまずきが起こるのは避けられませんが」とあることから、誘惑に負けた兄弟に対する態度としての忠告である。
マタイの福音書 18章15~20節では、「行って二人だけのところで」、「もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に」、「それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい・・・」と、何と、懇( ねんご )ろな係わりを進めていることか !
何故なら、そうすることによって魂を神に導くことこそ、教会に与えられた責任であり、その祈りは答えられるから。
ガラテヤ人への手紙 6章1、2節では、「もしだれかが何かの過ちに陥( おちい )っていることが分かったなら・・・柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります」とあり、ここにこそ 《 主に在る愛の実践 》 があると言っている。
親身に関わることが愛の戒めに叶うと。
b. 3節b’ 「そして悔い改めるなら、赦しなさい」、しかも、4節 「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て 『 悔い改めます 』 と言うなら、赦しなさい」に従うこと。
この「赦しなさい」は、相手が赦しを求め、悔い改めることによって初めて成立する恵みであり、この「 『 悔い改めます 』 と言うなら」を見逃してはならない。主は「悔い改めます」と言って来るならば、一日に何度であってもと。
何故なら、既に私たちが、主の 《 十字架による無代価で与えられた赦し 》 を経験させて頂いているからである。
ヨハネの手紙 第一 4章7~12節 「私たちは互いに愛し合いましょう・・・私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥( なだ )めのささげ物としての御子を遣わされました・・・神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです」と。
※ これらの警告は 《 主の愛で生きる者 》 への招きである !!
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