聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 71


ルカの福音書16章1節~13節

先週は、主が ※ 15章の三つのたとえをもって、1、2節で「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と憤慨したパリサイ人・律法学者たちを、32節 「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか」と窘( たしな )めて、兄息子に自らの正体を見せた、彼らの知るべきことについて考えた。
ⅰ 28節 「すると兄は怒って・・・」、29節 「ご覧ください」に・・・
a. 「長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません」に見る自己義の主張を。
戒めの中心は愛 !! 彼には、外面的な正しさがあっても、恩着せがましい義務感でしかなく、肝心な愛がないのだ。
b. 「その私には・・・下さったこともありません」に見る盲目。父の ※ 31節 「・・・私のものは全部おまえのものだ」とは事実なのだ。彼が「友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹」を屠( ほふ )らなかったのであれば、それは単にそうしない事をもって敬虔とする彼らの主義に過ぎない。にも拘らず、それを父の出し惜しみ ? 不公平 ? によるものと責め立てている。ここには、微塵も与えられている恵みへの感謝がない。
c. 30節 「それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした・・・そんな息子・・・」に見る弟への冷淡な断罪。
d. 32節 「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り・・・」に見る父の持つ魂への重荷がない。

ⅱ 自らも又同様、父に立ち返るべき罪人であり、尋ね出て頂かない限り、「生き返」ることの出来ない者であることを。

※ 自らの無知に目覚め、内なる清めに与り続けたい、と。


今朝は、主がパリサイ人・律法学者たちに向けて、彼らの自己義故の排他的過ちを扱われて後、1節 「弟子たちに対しても」と、1b~8節 「ある金持ちに一人の管理人がいた」と始められたたとえ話から 《 重要な教訓 》 に学びたい。
この物語の結論は、8節 「主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた」にあるが、その彼は、1節c 「主人の財産を無駄遣いしている」という不正行為が発覚したことにより、主人から「管理を任せておくわけにはいかない」と宣告されていた人である。
何と !! 驚くことには、彼を解雇しようとしていたその主人が、その彼を【「賢い」、詳訳 : 抜け目のない( 用意周到な )やり口】で今後に備えたとして「ほめた」というのである。
この話は、明らかに主人の財産を無駄遣いしていたという悪事に加えて、更に悪事を犯したからというので咎( とが )められずに、むしろほめられているとは !!
主が、このたとえ話をもって弟子たちに教訓を与えようとなさるのは ? と理解し難く感じられなくもない箇所であるが、8節b 「この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである」と主が仰っておられる意味を考えるならば、決して疑問視する必要はない。
主がたとえ話をもって、弟子たちに伝えたいとされたことは、主人が驚きほめざるを得なくされた 《 管理人の抜け目なさ 》 にある。主人が管理人を「ほめた」のは、管理人の不正行為では勿論なく、そうまでして自らの将来を見越して取った行動の抜け目なさへの感心・感服である。

弟子たちが学ばなければならなかったこととは、この管理人のようであること。管理人は、3、4節で「どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ」と考えて、自らの将来に備えて賢く、迎えてくれる友人を作っておこうとした。
即ち弟子たちにとっての自らの将来とは、やがて召される天であるが、その天の日に備えて、管理人の賢さに学びなさい、にあった。

① 9節 「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます」。

「不正の富」とは、「富」そのものが悪ではないが、しばしば、人々の肉欲によって「不正」に扱われることの意。「富がなくなったとき」とは、文脈から【死んだ時】を意味し、生きている間に用いるべく預けられている「富」を使い果たしたことを意味する。
ということは、「富」は地上に蓄えるものではないことの暗示で、マタイの福音書 6章19~21節と重なる。「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。・・・天に宝を蓄えなさい・・・」となり、地上で与えられた「富」を、隣人の魂の救いの為に用いることが意味されている。天で迎えてくれる人々こそが、その「富」を用いて救われた人々ということになると。

② 10節 「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です」、11節 「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか」、12節 「また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか」。

次に主は、天で迎える〈 友がいるのか、いないのか 〉の問題から更に一歩進んで、その「不正の富」の用い方における忠実さの如何は、弟子たち自身の霊的いのちの有無に関係する重要な問題だとされた。「最も小さなこと」とは「不正の富」で 《 地上的な物の全て、「他人のもの」即ち、金持ちが自分の財産を管理人に任せた物で、主が地上生活上弟子たちに任せられた全てのもの 》 を意味し、「大きなこと」とは「まことの富」で 《 霊的な富、天的な富 》 を意味する。
地上生活における忠実さが天における霊的祝福に通じる。

③ 13節 「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません」。

預けられた「富」は、神と並べるべきではなく、神の御心に従って用いられるべきであるとの警告である。

※ 主の聖前に真の「賢さ」に生きる者であるのかの吟味を !!

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