ルカの福音書14章25節~35節
《 連講68回 》 では、主が ※ 14章1節で食事に招かれていた場面でのこと、15節b 「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」との声に答えられたおことばに学んだ。
「神の国」での食事とは、黙示録 19章9節 「子羊の婚宴」であるが、( ルカに戻って )話の結論は、24節 「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません」とは、厳粛。
その人々とは、全世界の祝福の基となるべく召され、神の言葉を預かり、福音が委( ゆだ )ねられた選民ユダヤ人のこと。
同時に救いに与った私たちのことだとして、警戒した。
ⅰ 警戒すべき姿勢は、18節 「畑を買ったので」、19節 「五くびきの牛を買ったので」、20節 「結婚したので」と、それぞれが、招待を辞退する口実を述べて応じなかった 《 招きを日常的な事柄よりも劣るとした侮り 》。
ⅱ この無知の致命的、根幹的問題は、主人への「どうか、ご容赦ください」という感覚にも明確。
怒っている主人、主人は聖父の心であり、招かれた人が祝福に与り損ねることへの悲しみによる憤慨であり、主人である聖父ご自身の損失を思ってのことではない。
このことが分かっていないことに問題がある。
三人目の結婚した人だけに、その言葉がないのは ? 多少、自らの損失だとの霊的理解がありながらも、伴侶者との関係で葛藤し、勇気がなかった為か ? 何れにせよ、主の ※ 13章34、35節 「エルサレム、エルサレム」との嘆きは、自ら滅びを招く民を憐れんでの号泣なのだ。
※ 「まず神の国と神の義を求めなさい」に従いたい !! と。
今朝は、主が、14章24節 「私の食事を味わう者は一人もいません」といわれた人々が、どの様な理由でそうなったのか、逆に、どの様な人々が、招きに応じて 《 子羊の婚宴の席に迎え入れられるのか ? 》 と話された後のこと、今度は、この神の国の招きに応じて「食事を味わう者」とは、実は、26節 「・・・なら、わたしの弟子になることはできません」、27節 「・・・来ない者は、わたしの弟子になることはできません」、33節 「・・・なければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません」と、もっと厳密に話を進めて「・・・なら」と、条件を満たして 《 主の弟子となる者が 》 と示唆して語られたおことばに学びたい。
13章24節では「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです」とも語られていたが、民の危機感のなさ、いい加減さを憂えておられる重荷からの通告に重ねて、ここに主のエルサレム行き最後の旅での最終的通告がある。
14章では先ず、弟子としての姿勢について語られるのに、世の常識的事柄の中から二つのたとえをもって諭された。
a. 28~30節 「塔を建てようとするとき」の話では、当然のことながら、建築に必要な経費の予算を組んで取り掛かるのであって、決して、予定が立たないのに建て始めるという行き当たりばったりということではない。
b. 31、32節 「どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くとき」の話では、敵の勢力に勝ち目があるのかどうか、しっかり検討する。
主がこの例話を話された意図は ? 何事かに携わる時には、《 完成を目指し、或いは勝利を考えて 》 用意周到に臨むことだろう。決して 《 未完成でも、負けても良い 》 といういい加減な態度ではなく、真面目な、真剣な態度で臨む。
地上的事柄においてさえ、そうであるのだから、尚のこと、塔を建てようとする人以上に、戦いに挑む王以上に、《 神の国に招かれた者ならば、その光栄感の故に、もっと本気に 》 臨む態度が吟味される必要があると。
その備えの為の実際的な示唆は ?
① 26節 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら」に。
この「憎まないなら」とは、人を憎悪するの意ではない。マタイの福音書 10章36、37節 「そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。わたしよりも 父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも 息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」とあるように、《 主と私との関係に、どんなに親しい関係にある肉親であっても、入る事があってはならない 》 の意。
この忠告に何が示唆されているだろう ? 主に従う生活は、最も身近な人に理解されない時、その人たちが「敵となる」という悲しい現実に遭遇するのが常。他人から理解されない場合には生じなくて済む情的な感情が伴う為、信仰が試される。特に、「父、母」の場合には、扶養の身であるとの厳しさがあり、「妻」とある場合、主に在る結婚であるかが問題になる。
② 27節 「自分の十字架を負って」主について行くことに。
この「十字架を負」うとは、マタイの福音書 16章24節 「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」に説明されている。「自分を捨て」とは、隣人を救う為に、自分の権利を主張せずにご自身を空しくされた主の在り方こそ模範 !!
主がペテロに語った( ヨハ 21・15~ )、「あなたはわたしを愛していますか」に見る 《 自己死 》。ペテロのご自身への拒絶による思いを死なせ、ペテロの立ち直りにのみ関心を抱くことに見る。
③ 33節 「自分の財産すべてを捨て」ることに。
コリント人への手紙 第一 13章2、3節 「・・・愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても・・・」とあるように、「財産すべてを捨て」と言う時、財産そのものを言っているのではないことが分かる。もっと私たちの心の深い部分における完全な明け渡しを意味する。
この意味を的確に言い表す聖句は、ゲッセマネの園で祈られた( ルカ 22・42 )主の、「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」であり、聖父への完全な意思の明け渡し。
「自分の財産すべて」には何が ? 私の存在の一切であり、今の意思、行為、持てる物【時間、金銭、賜物】に対する聖父の求めに従わせる愛に他ならない。
※ ここに生きる時、34節 「塩気」を持つキリスト者となり、この世の「塩」として生きつつ、「神の国」に備えさせる。
《 連講68回 》 では、主が ※ 14章1節で食事に招かれていた場面でのこと、15節b 「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」との声に答えられたおことばに学んだ。
「神の国」での食事とは、黙示録 19章9節 「子羊の婚宴」であるが、( ルカに戻って )話の結論は、24節 「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません」とは、厳粛。
その人々とは、全世界の祝福の基となるべく召され、神の言葉を預かり、福音が委( ゆだ )ねられた選民ユダヤ人のこと。
同時に救いに与った私たちのことだとして、警戒した。
ⅰ 警戒すべき姿勢は、18節 「畑を買ったので」、19節 「五くびきの牛を買ったので」、20節 「結婚したので」と、それぞれが、招待を辞退する口実を述べて応じなかった 《 招きを日常的な事柄よりも劣るとした侮り 》。
ⅱ この無知の致命的、根幹的問題は、主人への「どうか、ご容赦ください」という感覚にも明確。
怒っている主人、主人は聖父の心であり、招かれた人が祝福に与り損ねることへの悲しみによる憤慨であり、主人である聖父ご自身の損失を思ってのことではない。
このことが分かっていないことに問題がある。
三人目の結婚した人だけに、その言葉がないのは ? 多少、自らの損失だとの霊的理解がありながらも、伴侶者との関係で葛藤し、勇気がなかった為か ? 何れにせよ、主の ※ 13章34、35節 「エルサレム、エルサレム」との嘆きは、自ら滅びを招く民を憐れんでの号泣なのだ。
※ 「まず神の国と神の義を求めなさい」に従いたい !! と。
今朝は、主が、14章24節 「私の食事を味わう者は一人もいません」といわれた人々が、どの様な理由でそうなったのか、逆に、どの様な人々が、招きに応じて 《 子羊の婚宴の席に迎え入れられるのか ? 》 と話された後のこと、今度は、この神の国の招きに応じて「食事を味わう者」とは、実は、26節 「・・・なら、わたしの弟子になることはできません」、27節 「・・・来ない者は、わたしの弟子になることはできません」、33節 「・・・なければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません」と、もっと厳密に話を進めて「・・・なら」と、条件を満たして 《 主の弟子となる者が 》 と示唆して語られたおことばに学びたい。
13章24節では「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです」とも語られていたが、民の危機感のなさ、いい加減さを憂えておられる重荷からの通告に重ねて、ここに主のエルサレム行き最後の旅での最終的通告がある。
14章では先ず、弟子としての姿勢について語られるのに、世の常識的事柄の中から二つのたとえをもって諭された。
a. 28~30節 「塔を建てようとするとき」の話では、当然のことながら、建築に必要な経費の予算を組んで取り掛かるのであって、決して、予定が立たないのに建て始めるという行き当たりばったりということではない。
b. 31、32節 「どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くとき」の話では、敵の勢力に勝ち目があるのかどうか、しっかり検討する。
主がこの例話を話された意図は ? 何事かに携わる時には、《 完成を目指し、或いは勝利を考えて 》 用意周到に臨むことだろう。決して 《 未完成でも、負けても良い 》 といういい加減な態度ではなく、真面目な、真剣な態度で臨む。
地上的事柄においてさえ、そうであるのだから、尚のこと、塔を建てようとする人以上に、戦いに挑む王以上に、《 神の国に招かれた者ならば、その光栄感の故に、もっと本気に 》 臨む態度が吟味される必要があると。
その備えの為の実際的な示唆は ?
① 26節 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら」に。
この「憎まないなら」とは、人を憎悪するの意ではない。マタイの福音書 10章36、37節 「そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。わたしよりも 父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも 息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」とあるように、《 主と私との関係に、どんなに親しい関係にある肉親であっても、入る事があってはならない 》 の意。
この忠告に何が示唆されているだろう ? 主に従う生活は、最も身近な人に理解されない時、その人たちが「敵となる」という悲しい現実に遭遇するのが常。他人から理解されない場合には生じなくて済む情的な感情が伴う為、信仰が試される。特に、「父、母」の場合には、扶養の身であるとの厳しさがあり、「妻」とある場合、主に在る結婚であるかが問題になる。
② 27節 「自分の十字架を負って」主について行くことに。
この「十字架を負」うとは、マタイの福音書 16章24節 「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」に説明されている。「自分を捨て」とは、隣人を救う為に、自分の権利を主張せずにご自身を空しくされた主の在り方こそ模範 !!
主がペテロに語った( ヨハ 21・15~ )、「あなたはわたしを愛していますか」に見る 《 自己死 》。ペテロのご自身への拒絶による思いを死なせ、ペテロの立ち直りにのみ関心を抱くことに見る。
③ 33節 「自分の財産すべてを捨て」ることに。
コリント人への手紙 第一 13章2、3節 「・・・愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても・・・」とあるように、「財産すべてを捨て」と言う時、財産そのものを言っているのではないことが分かる。もっと私たちの心の深い部分における完全な明け渡しを意味する。
この意味を的確に言い表す聖句は、ゲッセマネの園で祈られた( ルカ 22・42 )主の、「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」であり、聖父への完全な意思の明け渡し。
「自分の財産すべて」には何が ? 私の存在の一切であり、今の意思、行為、持てる物【時間、金銭、賜物】に対する聖父の求めに従わせる愛に他ならない。
※ ここに生きる時、34節 「塩気」を持つキリスト者となり、この世の「塩」として生きつつ、「神の国」に備えさせる。
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