イースター記念礼拝


ローマ人への手紙6章4節~11節

私たちは、『 ルカの福音書 』 の連講も前回で68回目を迎えて、いよいよエルサレムへの最後の旅を続けておられる主と歩みを共にさせて頂いている。
エルサレムへと、いよいよ人の子として 《 十字架刑による贖いの死 》、屠( ほふ )られる子羊として、生贄( いけにえ )の祭壇に捧げられる日を意識されての旅だった。
そして私たちは、主がエルサレムに近付いて行くにつれ、ユダヤ人指導者たちの殺気立って行く敵意をより一層身近に感じながらも、その彼らの為に、ルカ 13章34、35節 「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられる・・・」と嘆き悲しみながら、その彼らを最後の最後の極みまで愛される主の愛に近付かせて頂いている。
主のこの最後の旅におけるお気持ちを的確に説明する聖句の一つに、へブル人への手紙 12章2節b 「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱( はずかし )めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです」がある。
主のこの「喜び」とは、今朝の ※ ローマ人への手紙 6章4節d 「新しいいのちに歩むため」という目的にある。主にとって 《 十字架の死 》 がどれ程の屈辱を意味していましょうとも、主は、「( 私たちが )新しいいのちに歩むため」ならば、ものともなさらなかったお方だというのだ !!
今朝は、4節 「私たちも、新しいいのちに歩むため」とあるのが、実は、「ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように」であったことからメッセージを !!

① 先ず、「新しいいのちに歩む」とは ?

この「歩む」とは、私たちの生活の営み全体のことで、その人の生活が新しくされることを意味している。
実際的な説明が、5節以下になされている。
5節b 「キリストの復活とも同じようになる」私たちはこの地上生活の何処かで、肉体の死を通過しなければならない。しかし、肉体の死は、肉体と魂の分離の時に過ぎず、やがて、全ての人は、よみがえることになっている。ヨハネの福音書 5章28、29節 「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます」と。この「善を行った者」即ち、キリストの犠牲によって義とされ、日々、キリストの血潮による赦しと清めに与って来たクリスチャンは、キリストが復活されて、聖父の御許( みもと )に召されたと同じように、聖父と共に生きる永遠のいのちに与るというのである。何という希望がここに !!
6節 「罪の奴隷でなくなる」私たちの肉体は、良いことにも悪いことにも用いられるが、肉体そのものが悪い訳ではない。意志の赴( おもむ )くままにどうにでもなるが、私たちの肉体が罪の道具として用いられなくされること。
7節 「罪から解放され」る過去の罪の赦し、罪性の清めの恵みにより、罪を犯すことからの解放への導きを得る。
8節 「キリストとともに生きることにもなる」キリストを【聖霊の内住によって】内住のお方として経験し、力あるお方として現実的に力を経験して行くこと。
11節 「自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認め」た生活に導き入れられる罪への誘惑によって弱さを覚える時でも、御子を信じる信仰によって生きることが出来るようにして頂くということ。

② この「新しいいのちに歩む」ようになるには ?

「ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように」と、主の十字架の死後、復活されたことを伝えている、この復活の為に、払わなければならなかった主の犠牲を覚えること。
人の子となられた地上でのご生涯、そこでは私たちと同じ弱さを身にまといながらも、日々聖父の御心を行う為の闘いを闘ってくださったという献身、罪を一度も犯さずに生き抜くという忠実な日々が求められていたこと。
へブル人への手紙 4章15、16節 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助け受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。
同 5章7~9節 「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり」との記述に、注目すべきである。

③ 主が勝ち取ってくださった、「新しいいのちに歩む」生涯に生きる為に、私たち自らがしなければならない霊的営みがあること。

5節 「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら・・・」、6節 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられ・・・」、7節 「死んだ者は、罪から解放され」、8節 「私たちがキリストとともに死んだのなら」、11節 「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい」と語られているところに生きること。
主は、人の罪に対する神の怒りを引き受けて十字架上でいのちを捨てられた。その犠牲を自らのものと信じること、信じ続けることに他ならない。信じる時、私はキリストと共に「死んだ者」となって、死から復活された主と同様、いのちに与るのだ。

※ 十字架の死を自らのものであるとの信仰で、聖餐式に !!

この記事へのコメント