聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 68


ルカの福音書14章15節~24節

先週は、主が、1節 「パリサイ派のある指導者」の招きに、悪質な魂胆と敵意によるものと知りつつ応じられた場面で、その彼らを扱う 《 主の魂を愛して止まないお姿 》 に学んだ。

ⅰ 主の ※ 3節 「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」の質問に見る。
彼らは律法を解きながら、律法の心 《 主を愛し、隣人を愛すること 》 とは裏腹だった。自分の利害の為に、安息日に動くことはあっても、隣人の窮状には、「いかなる仕事もしてはならない。 出エジプト記 20章10節」を文字通り適用して助けず、助ける主を非難する 《 極めて利己的な身勝手さ 》 を扱われた。

ⅱ 7節 「客として招かれた人たちが上座を選んでいる様子に気がついて、彼らにたとえを話された」に見る。
この 《 優越感に浸る高慢 》、さもしい態度に痛んで扱われ、祝福の原則は、11節にあると教えられた。

ⅲ 12節 「昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。・・・貧しい人たち・・・を招きなさい」に見る。
パリサイ人たちの善意に潜んでいる 《 動機における不純 》 にメスを入れられた。言うまでもなく、前者を招いてはいけないの意味ではなく 《 招く動機を問題 》 にして扱われた。
パリサイ人の善意が、いつも、12節d 「彼らがあなたを招いて、お返しをする」その報いを求める動機によるものだったから。

※ 憎しみの眼差しを向ける人々からの不純な招きにも動じることなく、むしろそれと知りつつも、彼らへの愛の故に応じられる主の真実を覚えて、主に従う者でありたいと。


今朝は、前回と同じ場面でのこと、食事に招かれていた一人が、15節 「・・・これを聞いて、イエスに言った。『 神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。 』 」に、主が答えられたおことばに学びたい。
これまでの主の人々を扱われるおことばに共鳴してか ? 特に主が、14節 「その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。」と言われたおことばを聞いて、好奇心を掻き立てられたのか ? 彼の、15節b 「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」とは、今まで心に抱いていたユダヤ人信仰の反映と思われる。
「神の国」での食事とは ?
ヨハネの黙示録 19章1~9節、ヨハネがパトモス島で見た幻、人類にとって最も輝かしいクライマックスに向かう序曲のような場面である。19章1節 「その後」と、前章 21節の「大きな都バビロンは、このように荒々しく投げ捨てられ・・・」という悪への神の裁きがなされた光景とは打って変わっての対照的な光景として出て来る。
合わせて学んでおきたい。この「神の国」に対応して「獣の国」が存在するが、「神の国」は神の支配、「獣の国」は、黙示録で「竜」として登場するサタンの支配する国。サタンは、政治的権力としての「獣」、宗教的欺瞞( ぎまん )としての「にせ預言者」、経済的誘惑としての「大バビロン」によって、世を堕落させる存在。これらの悪の力が、見事に神の鉄槌を受けるという出来事が起こった※19章1節 「その後」の幻 !!
旧約時代から待ち焦がれたメシア・キリストによる「神の国」の到来を前にして、「子羊の婚礼の時」を迎える場面。
ここに、「ハレルヤ。・・・神をほめたたえよう。」との光栄ある勧めとともに、9節 「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ・・・」との招きに与ることになるのだ。

ここで主は、彼の15節を受けて、ご自身の重荷としておられることを語らざるを得なくされた。それは、このたとえ話の結論である ※ 24節 「言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません」で明確。
それは、誰を指して ? 17節 「招いていた人たち」、直接的にはユダヤ人指導者たちであり、全世界の祝福の基となる為に召されていた、先ず神の言葉を預かり、福音が委( ゆだ )ねられた選民ユダヤ人のこと。
この事実を痛みながら、主は、この宴会に招いた主人のように、聖父は、21節 「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たち」、即ち、指導者たちから蔑( さげす )まれている取税人や遊女たちを招き、更には、22節 「まだ席があります」と聞いて、23節 「街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て・・・」と、異邦人を招かれたと伝えられた。
ここで私たちは、主人が「招いていた人たち」とは、救いに与った私たちのことだとして、警戒したい。何故なら、既に私たちは、主の十字架によって神の子とされ、「神の国」を待ち望んでいる霊的選民だからである。

① 警戒すべき姿勢は、あくまでも、招かれた「宴会」の意義を理解していない怠慢、無知である。

18節 「畑を買ったので・・・どうか」、19節 「五くびきの牛を買ったので・・・どうか」、20節 「結婚したので・・・」と、それぞれが、招待を辞退する口実を述べて応じなかった。
この招待は、17節 「招いていた人たち」とあることから、その「宴会」に出席する為に予定を組むべきだった。しかも、その当日、再度しもべが遣わされた時に断わっているとは !!
招かれた「宴会」を日常的な事柄よりも劣るものとし、「宴会」を侮るという悲しむべき浅はかさである。

② この無知の致命的、根幹的問題は、主人への「どうか、ご容赦ください」という感覚である。

確かに主人は怒っているが、「神の国で食事をする人は」と言ったことを意識して話された事から、主人は聖父の心であり、招かれた人が祝福に与り損ねることへの悲しみであり、主人である聖父側の損失を思ってのことではない。このことが分かっていないことに問題がある。
三人目の結婚した人だけに、その言葉がないのは ? 多少、自らの損失だとの霊的理解がありながら、伴侶者との関係で葛藤しながら、勇気がなかった為か ? 何れにせよ、主の ※ 13章34、35節 「エルサレム、エルサレム」との嘆きは、自ら滅びを招く民を憐れんでの号泣なのだ。

※ 主の、「まず神の国と神の義を求めなさい」に従いたい !!

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