聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 67


ルカの福音書14章1節~14節

先週は、エルサレム行きの旅もかなり南下しつつのヨルダン川の東、ヘロデ・アンティパスの領土内でのこと、主を支持するユダヤ人による暴動に警戒した為か ? 31節の退去の伝言に、主の ※ 32、33節 「狐( きつね )にこう言いなさい」の心に学んだ。

ⅰ 32、「行って、あの狐にこう言いなさい」と言い放つ 《 魂への責任感をお持ちの主 》。
ヘロデが事実、「狐」と呼ばれるべき人物だったからだ。単なる悪口ではなく、人を化かし、ずる賢く振る舞う彼の明らかな罪を見過さずに糾弾されてのこと。

ⅱ 32節b 「わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する・・・預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ」と、命を狙われる中、毅然と 《 自らの贖罪主としての最期を語る主 》。
ヘロデはパリサイ人と結託して主を脅迫し、主が最後を意識して行われる働きを阻止しようとしたが、手を緩めずに為すべき務めを全うすることにしか関心はないことを伝えられた。主には脅迫など通用せず、怖じ気付くことなど有り得ないとの権威ある宣言である。

ⅲ エルサレムでの最期について触れるや、34節 「エルサレム・・・」と、彼らに思いを馳せ、歯向かう民に、今も尚、救いの手を伸ばし、感極まって涙される 《 魂を慈しむ主 》。
その都度受けざるを得なくされた迫害をものともせずに、唯、間もなく主を磔( はりつけ )にする民の行方を痛んで涙される主。

※ ひたすら罪人を思う思いの為にのみ命を差し出し、脇目も振らずにエルサレムに向かわれる主を覚えたい、と。


今朝は、主が、14章1節 「パリサイ派のある指導者の家」に客として招かれた時のこと、24節までがその場での様子であるが、ここで主の注目された点が何処にあったかに学びたい。主は、食事に招かれたものの、いつものように、決して好意的な歓迎をもってのことではない。1節c 「そのとき人々はじっとイエスを見つめていた」とある。この「見つめていた」とは、6章7節 「・・・イエスが安息日に癒やしを行うかどうか、じっと見つめていた。彼を訴える口実を見つけるためであった」、20章20節 「機会を狙っていた彼らは、義人を装った回し者を遣わした。イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すためであった」と、明らかに悪意をもって厳密に観察する目的でのこと。
2節で「イエスの前には、水腫をわずらっている人がいた」とあるが、12、13節で主が、「ご自分を招いてくれた人にも」と話された時、「食事のふるまいをするときには、・・・からだの不自由な人たち・・・を招きなさい」と仰ったことから、主の目の前の「水腫をわずらっている人」は、招かれた客ではなく、故意に連れて来られた 《 主を律法の違反者として陥( おとしい )れる為の餌食 》 に過ぎないと考えられる。連れて来られた人を、招くためではなく、主を陥れようとして用いるとは、何と嫌悪すべき企( たくら )み、主とその病者への罪深い行為 !!
しかし、いつも主は、パリサイ人たちからの招きに伴う悪質な魂胆と敵意に満ちた空気と知りながらも応じておられる !!
それはあくまでも 《 敵意を抱く彼らを扱って罪を知らせる、惜しみなく愛して止まない 》 主の愛がそうさせるのだ。

主の愛は、彼らの何を扱っているのか ?

① 主の ※ 3節 「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と、パリサイ派の指導者に尋ねておられることに見る。

もう既に主は、彼らの心を見抜かれてのこと。彼らは、自らの都合を考えて、どちらとも答えられない状況に追い込まれ、唯、4節 「黙って」という無難な態度を取ることによって、否応なしに、主にわざを行わせる羽目になっている。5節の主の質問によっても、身動きが取れなくされた。彼らは、律法を解きながら、律法の心 《 主を愛し、隣人を愛すること 》 とは裏腹な生き方、自分の利害の為ならば安息日に動くことはあってもである。隣人の窮状を見たとしても、「いかなる仕事もしてはならない。 出エジプト記 20章10節」を文字通り適用して助けず、助ける主を非難する 《 極めて利己的で身勝手な生き方 》 を扱われた。

② 7節 「客として招かれた人たちが上座( かみざ )を選んでいる様子に気がついて、彼らにたとえを話された」に見る。

彼らに「招かれた人たち」というのは、招いた人への忠告で分かるが、12節 「友人、兄弟、親族、近所の金持ち」に限られていた。その人たちが、7節 「上座を選んでいる様子」に心を痛められ、人の優劣を意識して上座にこだわっている愚かさ、《 優越感に浸る高慢 》 を扱われた。
祝福の原則は、11節 「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるから」と教えられた。

③ 12節 「イエスはまた、ご自分を招いてくれた人にも、こう話された。『 昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。彼らがあなたを招いて、お返しをすることがないようにするためです。食事のふるまいをするときには、貧しい人たち・・・を招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。 』 」に見る。

パリサイ人たちの善意に潜( ひそ )んでいる 《 動機における不純 》 にメスを入れられた。言うまでもなく、前者を招いてはいけないの意味ではなく、《 招く動機を問題 》 にして扱われた。
それは、パリサイ人の善意が、いつも12節d 「彼らがあなたを招いて、お返しをすること」が出来る人だからというので好意を抱いているに過ぎないと、主は洞察された。
マタイの福音書 6章1~4節 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」とは、人の誉れのみを求めて善行する偽善者を警戒しての勧めである。
その為に主は、14、「お返しができない」、13節 「貧しい人たち」を招きなさいと。その時、14節 「その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。」と言われた。

※ 憎しみの眼差しを向ける人々からの不純な招きにも動じることなく、むしろそれと知りつつも、彼らへの愛の故に応じられる主の真実を覚えて、主に従う者でありたい。

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