聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 66


ルカの福音書13章31節~35節

先週は、23節 「主よ、救われる人は少ないのですか」の質問に、主が、24節a 「狭い門から入るように努めなさい【詳訳 : 自分に強制しなさい】」と答えられたおことばに学んだ。

ⅰ 「狭い門」とは、24節b 「多くの人が、入ろうとしても入れなくなるから」の意味で言われ、25~30節は厳粛 !!
神が意図された救いは、決して限られた人にではないが。

ⅱ 全ての人々の為の「神の国」が、何故、「狭い門」なのか ?
テトスへの手紙 2章11~15節に注目した。救いによって与えられる「神の恵み」とは、罪人をして 《 如何に高価で、諦めざるを得ない、到達不可能な生き方をさせる 》 ものであるか、その霊的経験に導くことにあるが、全ての人がこの生き方を好むとは限らないからである。切望する者のみの経験となるから。
26節、主と食事を共にし、お話を聞いては感銘し、奇跡には驚嘆し、主に賛辞を寄せていたかも知れないが、主は、その人々に、27節 「不義を行う者たち」と言われた。8章13、14節 《 岩の地と茨の地 》 が彼らの態度だったから。

ⅲ 「努めなさい」とは ? 「救われる」為の努力ではなく、受けた救いを維持する際の警告としてのおことばである。
その為には、《 良い地となり 》 みことばに扱われては砕かれることである。主人に「不義を行う者たち」と言われた人々は、自らの不義を認めながらも悔い改めずに放置し、その為、遂に彼らは自らを正しいとして、主を十字架刑に処する人々となったのだ。

※ 28~30節で警告されている人々は 《 自己満足に浸る傲慢・不遜な選民ユダヤ人 》 である。自戒しての信仰生活をと。


今朝は、31節 「ちょうどそのとき、パリサイ人たちが何人か近寄って来て、イエスに言った。『 ここから立ち去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています。 』 」と言われた場面に注目して、十字架の日に臨まれる主のお心に学びたい。私たちは既に、主のご生涯、最後の半年を残すのみとなったエルサレム行きの旅が、9章51節 「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった」の記事から始まったと学んで来ている。
今日の記事では、エルサレム行きの旅もかなり南下して、ひと時、ヘロデ・アンティパスの領土内におられたことが分かる。このヘロデは、兄弟ピリポの妻ヘロディアとの不貞関係を非難したバプテスマのヨハネの首をはねた人物であり、主が彼の領土ガリラヤ地方内で行っておられる様々な奇跡に「ひどく当惑し・・・ 9章7節/イエスに会ってみたいと思っ・・・ 同 9節」ていた人物である。そのガリラヤ地方を出て南下された主が、今度は、彼のヨルダン川東部の領土内でわざを行っている事に警戒したからなのか ? パリサイ人たちを通して主を脅迫し、追い出しに掛かっている。
当時の 《 国主は皆、ローマの傀儡王( 操り人形 ) 》 であった為、主のわざによって主を支持するユダヤ人による何らかの暴動に警戒し、自らの立場を危うくしかねないと恐れた為か ? パリサイ人たちも又、自らの身を守りたいが為に、「ここから立ち去りなさい」と !!
しかし主の応えは、32、33 「行って、あの狐( きつね )にこう言いなさい。『 見なさい。わたしは・・・働きを完了する。しかし・・・ 』 」と。

主のお心に近付きたい。

① 32、「行って、あの狐にこう言いなさい」と言い放つ 《 魂への責任感 》 をお持ちの主。

ヘロデが事実、「狐」と呼ばれるべき人物だったからだ。彼のやること為すことを見聞きされて、単なる悪口ではなく、人を化かし、ずる賢く振る舞う彼の明らかな罪を見過さずに糾弾されてのこと。親の七光に甘んじ、自ら主に殺意を抱きながらも、堂々と、「私たちの父はアブラハムです。 ヨハネの福音書 8章39節」と嘯( うそぶ )くパリサイ人たちには、「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって 同 44節」と、真っ向から傲慢・不遜な高位高官たちの罪を暴かれるのに同様、《 救霊者としての主 》。

② 32節b 「わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する。しかし、わたしは・・・進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ」と、毅然と 《 自らの贖罪主としての最期を語る主 》。

ヘロデはパリサイ人と結託して主を脅迫し、主が最後を意識して行われる働きを阻止しようとしたのだ。「今日と明日、三日目」との表現は、文字通りの三日間の意ではなく、タイムリミットが近付いている今、手を緩めずに為すべき務めを全うすることにしか関心はないことを伝えられたに過ぎない。主には脅迫など通用せず、怖じ気付くことなど有り得ないとの権威ある宣言である。
しかも、「預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ」と、ご自身の権威を明らかにされた。
ヨハネの福音書 10章18節 「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。・・・この命令を、わたしの父から受けたのです。」との聖父への忠実さ。

③ 34、「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに・・・」と嘆きつつ救いの手を伸ばし、感極まって涙された 《 魂を惜しむ愛の主 》。

間もなく閉じようとしている主のご奉仕は、「めんどりがひなを」扱う扱いに擬( なぞら )えて、これまで「何度」、神の怒りから雛を守ろうと、罪からの悔い改めを迫り、さじを投げることなく、関わって来たことかと。
その都度受けざるを得なくされた迫害に対しては、へブル人への手紙 12章2、3節 「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方とある。ご自分の為に流される涙は微塵もなく、唯、間もなく “ 主を十字架につけろ ” と叫ぶ民の行方を痛んで涙される主。

※ ひたすら罪人を思う思いの為にのみ命を差し出し、脇目も振らずにエルサレムに向かわれる主を覚えたい。

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