ルカの福音書13章22節~30節
先週は、主が、18節 「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか」、19節 「それはからし種に似ています」、21節 「それはパン種に似ています」と言われたところに注目し、18節 「そこで・・・」とあることから、14~16節での会堂司の偽善を意識されてのことと学んだ。
両者は、何れも小さい物であること/しかし小さい物ではあるが、19節a’ 「生長して木になり」、21節a’ 「全体がふくらみました」という目覚ましい結果を見ること/但し、本来良い筈の結果が、実は、19節c 「枝に巣を作」った「空の鳥」も、粉を膨張させた「パン種」も 《 良い意味ではなく、警戒すべきたとえを意味している 》 として「神の国」を考えた。
ⅰ 「神の国」は、極めて小さい物から始まったこと。
小さいとは、蔑( さげす )みの対象でしかない始まりを意味する。主のご降誕にまつわる事実こそ、その小さい象徴 《 受胎告知に与ったマリアに始まり、イザヤ書 53章の預言が語る「悲しみの人」としてのご生涯 》、十二弟子の小ささ。
ⅱ しかしその小さな始まりも、成長に伴う腐敗に警戒を !!
迫害下の少数の群れも、教会の誕生を経て四世紀の国教化以降、教会は世俗の政治権力と結びつき、膨れ上がる。
正に、「空の鳥、猛禽類」が宿って教会の純潔を失わせ、「パン種」による膨張に腐敗を来す現象を見ることに。
その腐敗要素は、主の癒しに憤った「会堂司」の 《 肉的性質・偽善 》 であり、律法の究極が「愛」であると知らず、冷ややかにも、群衆の主への近付きを阻止する出方に見る。
※ コリント人への手紙 第一 5章6~8節、「種なしパンで祭りを」と !!
今朝は、主が、ある人の ※ 23節 「主よ、救われる人は少ないのですか。」の質問に答えられて、24、「狭い門から入るように努めなさい【詳訳 : 自分に強制しなさい】」と仰ったところに学びたい。
この質問者は、これまで懇々と 《 主の再臨とその備えの為に、悔い改めの必要性について 》 語って来られたことに危機感を覚えてのことか ? 多少なりとも、救いについて不安を感じた為、主に聞いて来たのではないかと考えられる。
① 「狭い門」とは ?
24節b 「多くの人が、入ろうとしても入れなくなるから」に意味されている。25~30節は、この事実を明らかにしている。 25節 「 『 ご主人様、開けてください 』 と言っても、主人は、『 おまえたちがどこの者か、私は知らない 』 と答えるでしょう」、27節 「おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け」と。実際、神が意図された救いは、決して限られた人にではない。ところが、人々が「ご主人様」と呼んでも拒絶されている通り、主を信じたからというので入れる訳ではない為、「狭い門」なのだ。
② 何故 ? すべての人々に設けられた「神の国」に入る門が、「狭い門」となるのか ?
テトスへの手紙 2章11~15節 「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています」に注目したい。
ここに、救いによって与えられる「神の恵み」が、罪人をして 《 如何に高価で、到底願ってもない高潔な、諦めざるを得なかった、到達不可能な生き方をさせる 》 霊的経験に導くものであるかが分かる。
ところがどうでしょう !! すべての人が好むとは限らないのが 《 キリストによる救いなのだ 》。
この奇跡的な生涯は、切望する者が経験する。しかし、福音を確かに良いものだと認めはしても、それを自らの霊的経験とすることとには違いがあるのだ。単なる好奇心 ? 感動 ? 感心 ? 敬服 ? することが「救い」ではないのだ。
25節 「外に立って戸をたたき始め、『 ご主人様、開けてください 』 」と言っても主人に拒絶された人々が、憤慨して言った言葉に注意したい。26節 「私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教えくださいました」と、しがみついて言っている。
そう、確かに、主とのお食事を共にし、お話を聞いたかも知れない。主と共に居ることは喜びであり、お話に感銘し共鳴し、しばしば見せて頂く奇跡には驚嘆して、主に賛辞を寄せていたかも知れない。所々で見る群衆たちの反応は、13節 「彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた」、17節b 「群衆はみな、イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ」であった。
ところが主は、そのように言って来る人々に、27節 「不義を行う者たち」と言われたのだ。8章13、14節に出て来る 《 岩の地と茨の地 》 に見たみことばに向き合う姿勢が、彼らの態度だったからである。
③ 「努めなさい」とは ?
この「努めなさい」は、言うまでもなく、「救われる」為の努力ではなく、受けた救いをどのように保つのか ? 維持するのか ? 救いをどれ程重要視するのか ? 蔑( ないがし )ろにする危険性、可能性をご存知で、警戒、警告されてのおことばである。
その為、積極的には、あの種蒔きのお話の 《 良い地 》 にたとえられている姿勢でみことばに向き合うことであり、消極的には、問題になった 《 岩地、茨の地 》 にたとえられている姿勢を戒めることである。
即ち、一言で言うならば、みことばに扱われては砕かれることである。主人に「不義を行う者たち」と言われた人々は、社会的犯罪を犯す者を意味するより、神の前における不義であり、ローマ人への手紙 1章28~32節に列挙されている 《 内なる罪深い肉の性質 》 である。しかし、これらの不義を認めながらも悔い改めずに放置するならば、遅かれ早かれ、殺意は殺人になる。言うまでもなく、彼らは自らを正しいとして、主を十字架刑に処する人々となるのだから。
※ 28~30節で警告されている人々は 《 自己満足に浸る傲慢・不遜な選民ユダヤ人 》 である。自戒しての信仰生活を !!
先週は、主が、18節 「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか」、19節 「それはからし種に似ています」、21節 「それはパン種に似ています」と言われたところに注目し、18節 「そこで・・・」とあることから、14~16節での会堂司の偽善を意識されてのことと学んだ。
両者は、何れも小さい物であること/しかし小さい物ではあるが、19節a’ 「生長して木になり」、21節a’ 「全体がふくらみました」という目覚ましい結果を見ること/但し、本来良い筈の結果が、実は、19節c 「枝に巣を作」った「空の鳥」も、粉を膨張させた「パン種」も 《 良い意味ではなく、警戒すべきたとえを意味している 》 として「神の国」を考えた。
ⅰ 「神の国」は、極めて小さい物から始まったこと。
小さいとは、蔑( さげす )みの対象でしかない始まりを意味する。主のご降誕にまつわる事実こそ、その小さい象徴 《 受胎告知に与ったマリアに始まり、イザヤ書 53章の預言が語る「悲しみの人」としてのご生涯 》、十二弟子の小ささ。
ⅱ しかしその小さな始まりも、成長に伴う腐敗に警戒を !!
迫害下の少数の群れも、教会の誕生を経て四世紀の国教化以降、教会は世俗の政治権力と結びつき、膨れ上がる。
正に、「空の鳥、猛禽類」が宿って教会の純潔を失わせ、「パン種」による膨張に腐敗を来す現象を見ることに。
その腐敗要素は、主の癒しに憤った「会堂司」の 《 肉的性質・偽善 》 であり、律法の究極が「愛」であると知らず、冷ややかにも、群衆の主への近付きを阻止する出方に見る。
※ コリント人への手紙 第一 5章6~8節、「種なしパンで祭りを」と !!
今朝は、主が、ある人の ※ 23節 「主よ、救われる人は少ないのですか。」の質問に答えられて、24、「狭い門から入るように努めなさい【詳訳 : 自分に強制しなさい】」と仰ったところに学びたい。
この質問者は、これまで懇々と 《 主の再臨とその備えの為に、悔い改めの必要性について 》 語って来られたことに危機感を覚えてのことか ? 多少なりとも、救いについて不安を感じた為、主に聞いて来たのではないかと考えられる。
① 「狭い門」とは ?
24節b 「多くの人が、入ろうとしても入れなくなるから」に意味されている。25~30節は、この事実を明らかにしている。 25節 「 『 ご主人様、開けてください 』 と言っても、主人は、『 おまえたちがどこの者か、私は知らない 』 と答えるでしょう」、27節 「おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け」と。実際、神が意図された救いは、決して限られた人にではない。ところが、人々が「ご主人様」と呼んでも拒絶されている通り、主を信じたからというので入れる訳ではない為、「狭い門」なのだ。
② 何故 ? すべての人々に設けられた「神の国」に入る門が、「狭い門」となるのか ?
テトスへの手紙 2章11~15節 「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています」に注目したい。
ここに、救いによって与えられる「神の恵み」が、罪人をして 《 如何に高価で、到底願ってもない高潔な、諦めざるを得なかった、到達不可能な生き方をさせる 》 霊的経験に導くものであるかが分かる。
ところがどうでしょう !! すべての人が好むとは限らないのが 《 キリストによる救いなのだ 》。
この奇跡的な生涯は、切望する者が経験する。しかし、福音を確かに良いものだと認めはしても、それを自らの霊的経験とすることとには違いがあるのだ。単なる好奇心 ? 感動 ? 感心 ? 敬服 ? することが「救い」ではないのだ。
25節 「外に立って戸をたたき始め、『 ご主人様、開けてください 』 」と言っても主人に拒絶された人々が、憤慨して言った言葉に注意したい。26節 「私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教えくださいました」と、しがみついて言っている。
そう、確かに、主とのお食事を共にし、お話を聞いたかも知れない。主と共に居ることは喜びであり、お話に感銘し共鳴し、しばしば見せて頂く奇跡には驚嘆して、主に賛辞を寄せていたかも知れない。所々で見る群衆たちの反応は、13節 「彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた」、17節b 「群衆はみな、イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ」であった。
ところが主は、そのように言って来る人々に、27節 「不義を行う者たち」と言われたのだ。8章13、14節に出て来る 《 岩の地と茨の地 》 に見たみことばに向き合う姿勢が、彼らの態度だったからである。
③ 「努めなさい」とは ?
この「努めなさい」は、言うまでもなく、「救われる」為の努力ではなく、受けた救いをどのように保つのか ? 維持するのか ? 救いをどれ程重要視するのか ? 蔑( ないがし )ろにする危険性、可能性をご存知で、警戒、警告されてのおことばである。
その為、積極的には、あの種蒔きのお話の 《 良い地 》 にたとえられている姿勢でみことばに向き合うことであり、消極的には、問題になった 《 岩地、茨の地 》 にたとえられている姿勢を戒めることである。
即ち、一言で言うならば、みことばに扱われては砕かれることである。主人に「不義を行う者たち」と言われた人々は、社会的犯罪を犯す者を意味するより、神の前における不義であり、ローマ人への手紙 1章28~32節に列挙されている 《 内なる罪深い肉の性質 》 である。しかし、これらの不義を認めながらも悔い改めずに放置するならば、遅かれ早かれ、殺意は殺人になる。言うまでもなく、彼らは自らを正しいとして、主を十字架刑に処する人々となるのだから。
※ 28~30節で警告されている人々は 《 自己満足に浸る傲慢・不遜な選民ユダヤ人 》 である。自戒しての信仰生活を !!
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