ルカの福音書13章10節~21節
先週は、1節 「ちょうどそのとき」と、悔い改めを強調された12章の事実を受けて、3節b、5節b 「悔い改め」なければ皆、その結果は滅びであると、最近起こった二つの事件から語られた悔い改めの必要性に注目し、その在り方を考えた。
2~5節の 《 悲劇的な災難に遭遇するのは、より「罪深い」からだと決めて掛かった 》 人々を目の前に、誰でも迎える死に備えるべきこと、それが「悔い改め、方向転換」であると。
こう語られつつ、罪人のこの悔い改めの為にと働かれる 《 三位の神の知られざる会話 》 を、6~9節のたとえ話に見た。
a. ここで聖霊は、聖父が人類との和解の為に、御子を遣わされ、御子の働きから、悔い改める人々が起こされることを期待しておられる聖父の御心を伝えている。
b. ところが現実は ? 全世界の祝福の基として立てられた民族でありながら、何一つその使命を弁( わきま )えず、むしろ、選民であるとして優越感に浸り、頑( かたく )ななままの現状であること。
c. 主は、間もなく三年の生涯を終えて十字架の日に向かう、最後のエルサレム行きを旅しておられるが、一向に悔い改めようとしない頑ななユダヤ人から激しい敵意を抱かれながらも、尚、救われる魂を求めておられる聖父のお心を知って、「もう一年」と執り成す番人であること。
ここに、アガペーの愛が !! 少数の悔い改める者が出たが、大多数のユダヤ人は遂に御子を十字架刑に処し、遂に、A.D.70年エルサレムの陥落、滅亡、離散の歴史を刻む。
※ 未だ悔い改めざる人々の為に執り成された主の如く、「どうか・・・木の周りを掘って・・・」の愛に生きる者でありたい、と。
今朝は、18節 「そこで、イエスはこう言われた。『 神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか 』 」と仰ったところから、19節 「それはからし種に似ています」、21節 「それはパン種に似ています」に注目したい。
この「そこで」とは、前節までの10~17節で扱われた 《 パリサイ人とのやり取り 》 を受けられてのお話であることが明らかなので、一見、繋がりのないように見えるが、注意深く学びたい。
実は12章1節cで、「イエスはまず弟子たちに話し始められた。『 パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい 』 」と、既に語っておられた。ここ13章では、17節 「イエスがこう話されると、・・・みな恥じ入り・・・イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ」群衆たちにも、その彼らを意識して語られたのだ。
その彼らとは、直接的には10節以下に登場して来た、14節の「会堂司」。彼は、主が ※ 10節 「安息日に、ある会堂で教えておられた」時に目にされた、11節 「十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人」をその病から解放されたのを見て、主のその行動に ※ 14節 「憤って、群衆に言った。『 働くべき日は六日ある。だから・・・ 』 」と群衆を責め立てた会堂司である。
会堂司は癒しを行われた主に憤ったが、直接主にではなく、主の恵みを見た群衆を叱りつけた。その動機を ※ 17節に見る。一目を置いている主には太刀打ちできず、自らの立場を利用して、主を喜ぶ群衆に向かうことしか出来なかった。
主は、信仰を持っていると自負している会堂司を意識されながら居合わせる人々に、「神の国は何に似ているでしょうか」と仰って、19節 「からし種に」、21節 「パン種に似ています」と、持つべき信仰を明らかにされた点を考えたい。両者は、三つのことで共通点を持っている。
a. 何れも小さい物であること。
b. しかし小さい物ではあるが、19節a’ 「それを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり」、21節a’ 「それを取って三サトンの粉に混ぜると、全体がふくらみました」という目覚ましい結果を持つこと。
c. こうした結果は、本来良いことのようであるが、実は、19節c 「枝に巣を作」った「空の鳥」においても、粉を膨張させた「パン種」においても 《 良い物としてではなく、警戒すべきたとえとして 》 用いられている。
この事実から「神の国」を考えたい。
① 「神の国」は、極めて小さい物から始まったこと。
小さいとは、人目に付かない、人間的には見向きもされず、蔑( さげす )みの対象でしかない始まりを意味する。主のご降誕にまつわる事実こそ、その小さい象徴である。寒村ナザレの処女マリアへの受胎告知、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶から始まる ※ イザヤ書 53章の預言が語る「悲しみの人」としてのご生涯。十二弟子の訓練後、一粒の麦としてエルサレムの地に蒔かれた主の死と復活、その小さな群れに注がれた聖霊による働きの小さな教会の始まり。
その小さな教会も、地中海沿岸に幾つもの教会の誕生を見ることになるが、世界帝国ローマによる迫害は、教会存続の危機を招くことにもなり、教会は地下に潜った。
② ところがその小さな教会も、成長に伴う腐敗に警戒を !!
『 小羊の王国 岡山英雄 著 』 136、137p “ 三世紀まで教会は、強大な軍事国家であるローマ帝国の中で、迫害される少数者として非暴力を貫いていた。教会の平和主義が大きく変化するのは、四世紀、コンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認、その「国教化」以降、教会は世俗の政治権力と結びつき、その結果、軍事力を肯定し「正義の戦争」の正当性を主張し始め・・・ ” 、腐敗が忍び込み、幾つかの宗教改革時代を経つつの今日である。
成長した教会に「空の鳥、猛禽類」が宿って、本来の教会としての純潔を失わせ、成長する教会に「パン種」による腐敗を入り込ませるという破壊的な傾向への警戒である。
その腐敗要素は、主が癒しを行われた時「会堂司」の中に見た 《 肉的性質・生まれ変わっていない生来の肉のままの性質 》 である。「会堂司」は高言する宗教家であり、礼拝の一切に責任を課せられていた人々である。しかしその実、主のわざ、「十八年も病の霊につかれ」ていた女性の癒しを喜べない命のない信仰、律法の究極が「愛」と知らず、冷ややかにも、主への憤りを露わに群衆の主への近付きを阻止し、神から委( ゆだ )ねられた神的権威を私有化する出方に見る。
※ コリント人への手紙 第一 5章6~8節、「種なしパンで祭りを」 !!
先週は、1節 「ちょうどそのとき」と、悔い改めを強調された12章の事実を受けて、3節b、5節b 「悔い改め」なければ皆、その結果は滅びであると、最近起こった二つの事件から語られた悔い改めの必要性に注目し、その在り方を考えた。
2~5節の 《 悲劇的な災難に遭遇するのは、より「罪深い」からだと決めて掛かった 》 人々を目の前に、誰でも迎える死に備えるべきこと、それが「悔い改め、方向転換」であると。
こう語られつつ、罪人のこの悔い改めの為にと働かれる 《 三位の神の知られざる会話 》 を、6~9節のたとえ話に見た。
a. ここで聖霊は、聖父が人類との和解の為に、御子を遣わされ、御子の働きから、悔い改める人々が起こされることを期待しておられる聖父の御心を伝えている。
b. ところが現実は ? 全世界の祝福の基として立てられた民族でありながら、何一つその使命を弁( わきま )えず、むしろ、選民であるとして優越感に浸り、頑( かたく )ななままの現状であること。
c. 主は、間もなく三年の生涯を終えて十字架の日に向かう、最後のエルサレム行きを旅しておられるが、一向に悔い改めようとしない頑ななユダヤ人から激しい敵意を抱かれながらも、尚、救われる魂を求めておられる聖父のお心を知って、「もう一年」と執り成す番人であること。
ここに、アガペーの愛が !! 少数の悔い改める者が出たが、大多数のユダヤ人は遂に御子を十字架刑に処し、遂に、A.D.70年エルサレムの陥落、滅亡、離散の歴史を刻む。
※ 未だ悔い改めざる人々の為に執り成された主の如く、「どうか・・・木の周りを掘って・・・」の愛に生きる者でありたい、と。
今朝は、18節 「そこで、イエスはこう言われた。『 神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか 』 」と仰ったところから、19節 「それはからし種に似ています」、21節 「それはパン種に似ています」に注目したい。
この「そこで」とは、前節までの10~17節で扱われた 《 パリサイ人とのやり取り 》 を受けられてのお話であることが明らかなので、一見、繋がりのないように見えるが、注意深く学びたい。
実は12章1節cで、「イエスはまず弟子たちに話し始められた。『 パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい 』 」と、既に語っておられた。ここ13章では、17節 「イエスがこう話されると、・・・みな恥じ入り・・・イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ」群衆たちにも、その彼らを意識して語られたのだ。
その彼らとは、直接的には10節以下に登場して来た、14節の「会堂司」。彼は、主が ※ 10節 「安息日に、ある会堂で教えておられた」時に目にされた、11節 「十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人」をその病から解放されたのを見て、主のその行動に ※ 14節 「憤って、群衆に言った。『 働くべき日は六日ある。だから・・・ 』 」と群衆を責め立てた会堂司である。
会堂司は癒しを行われた主に憤ったが、直接主にではなく、主の恵みを見た群衆を叱りつけた。その動機を ※ 17節に見る。一目を置いている主には太刀打ちできず、自らの立場を利用して、主を喜ぶ群衆に向かうことしか出来なかった。
主は、信仰を持っていると自負している会堂司を意識されながら居合わせる人々に、「神の国は何に似ているでしょうか」と仰って、19節 「からし種に」、21節 「パン種に似ています」と、持つべき信仰を明らかにされた点を考えたい。両者は、三つのことで共通点を持っている。
a. 何れも小さい物であること。
b. しかし小さい物ではあるが、19節a’ 「それを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり」、21節a’ 「それを取って三サトンの粉に混ぜると、全体がふくらみました」という目覚ましい結果を持つこと。
c. こうした結果は、本来良いことのようであるが、実は、19節c 「枝に巣を作」った「空の鳥」においても、粉を膨張させた「パン種」においても 《 良い物としてではなく、警戒すべきたとえとして 》 用いられている。
この事実から「神の国」を考えたい。
① 「神の国」は、極めて小さい物から始まったこと。
小さいとは、人目に付かない、人間的には見向きもされず、蔑( さげす )みの対象でしかない始まりを意味する。主のご降誕にまつわる事実こそ、その小さい象徴である。寒村ナザレの処女マリアへの受胎告知、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶から始まる ※ イザヤ書 53章の預言が語る「悲しみの人」としてのご生涯。十二弟子の訓練後、一粒の麦としてエルサレムの地に蒔かれた主の死と復活、その小さな群れに注がれた聖霊による働きの小さな教会の始まり。
その小さな教会も、地中海沿岸に幾つもの教会の誕生を見ることになるが、世界帝国ローマによる迫害は、教会存続の危機を招くことにもなり、教会は地下に潜った。
② ところがその小さな教会も、成長に伴う腐敗に警戒を !!
『 小羊の王国 岡山英雄 著 』 136、137p “ 三世紀まで教会は、強大な軍事国家であるローマ帝国の中で、迫害される少数者として非暴力を貫いていた。教会の平和主義が大きく変化するのは、四世紀、コンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認、その「国教化」以降、教会は世俗の政治権力と結びつき、その結果、軍事力を肯定し「正義の戦争」の正当性を主張し始め・・・ ” 、腐敗が忍び込み、幾つかの宗教改革時代を経つつの今日である。
成長した教会に「空の鳥、猛禽類」が宿って、本来の教会としての純潔を失わせ、成長する教会に「パン種」による腐敗を入り込ませるという破壊的な傾向への警戒である。
その腐敗要素は、主が癒しを行われた時「会堂司」の中に見た 《 肉的性質・生まれ変わっていない生来の肉のままの性質 》 である。「会堂司」は高言する宗教家であり、礼拝の一切に責任を課せられていた人々である。しかしその実、主のわざ、「十八年も病の霊につかれ」ていた女性の癒しを喜べない命のない信仰、律法の究極が「愛」と知らず、冷ややかにも、主への憤りを露わに群衆の主への近付きを阻止し、神から委( ゆだ )ねられた神的権威を私有化する出方に見る。
※ コリント人への手紙 第一 5章6~8節、「種なしパンで祭りを」 !!
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