聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 63


ルカの福音書13章1節~9節

先週は、私たちの告白する信仰生活上、「分裂」状態が起こる事は避けられないと語られたところに注目した。12章51節。

ⅰ 「分裂」とは ?
52、53節 《 何らかの攻撃的反対、迫害、生きる権利の剥奪にまで及ぶ 》 というもの。このことは、主の受難 ※ 50節 「バプテスマ ⇒ 血に浸る( 十字架による死 )」に顕著。

ⅱ 「分裂」は何故、避けられないのかは、49a、51節に示唆。
実際主は「平和の君」として 《 神との和解、人との和解関係 》 をもたらす為に、いのちを捧げられた。ところが、人々がこの主を受け入れなかった為、「地上に火を投げ込む」という不本意ながらの結果を招くことに。主が与えようとしておられる「平和」を自らの経験とするには、《 主が容赦なく暴かれる扱いに、謙って悔い改めること 》 が要求されるからである。

ⅲ 「分裂」のない霊的状態については、むしろ警告のみ !!
日常生活の問題に十分な知識があったとしても、最も肝心な「今の時代を見分け」る知識 ⇒ 40節 「人の子は、思いがけない時に来る」その日に備える 《 霊的時代の知識 》 については、全くの無知であると警告をなさった。
警告の中心は ※ 58節 「その人と和解するように努めなさい」であり、21章34、36節 「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」に通じる 《 神との関係における正しさ 》 に注意深くあるように、である。

※ 「分裂」を覚悟しつつ、主の歩まれた道に従いたい、と。


今朝は、13章3節b、5節b 「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」、9節 「それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください」と、重ねて語られた 《 悔い改めなければ、その結果は滅びであるとの 》 警告に耳を傾けたい。
1節の「ちょうどそのとき」とは、主が、12章56節で「今の時代を見分け」ることをしない、即ち、主がいつ帰られても大丈夫なような準備もせず呑気に構えている 《 霊的に怠慢な人々 》 を相手に、58節 「・・・途中でその人と和解するように努めなさい。そうでないと・・・牢に投げ込みます」と、悔い改めを迫られた「そのとき」である。
従って、今朝の13章の初めの部分も又、1節 「ちょうどそのとき、人々が何人かやって来て、ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、とイエスに報告した」を切っ掛けに、最近起こった二つの事件を取り上げて、この悔い改めの必要性、厳粛さを語られたことからである。

① 2~5節 「そんなことはありません。あなたがたも悔い改めないなら・・・同じように滅びます」と 《 人々への警告をもって 》 悔い改めを迫られた。

それは、ほとんどの人々が 《 余りにも自らの霊的状態について無頓着 》 だったからである。彼らは、悲劇的な災難に遭遇するのは、そうでない人々より「罪深い」からだと決めて掛かり、同情を抱かずに、極めて冷ややかだった。
人が、どのような形で死を迎えようが、その死に方で、その人の良し悪しを計るべきではないと警告された。
何故ならそうすることは、無責任極まりない越権行為であり、厳粛にもこのような【いつ、どの様な形で ? 突如として襲って来る】死を、一体誰が予知出来るというのか !!
こうした事実を前に、何か事あるその都度、謙虚に、自らの最期について考えるべきである。何故なら、あなたにも死は確実にやって来るからであり、このやって来るという現実ほど確かなことはないと。ローマ人への手紙 13章11~14節。
その避けられない現実の前に為すべきことは、一にも二にも【悔い改め、方向転換】であること。

② 実に、この悔い改めの為に働かれる 《 三位の神の知られざる会話が交わされている 》 とは !!

6~9節のたとえ話に注目したい。「ある人( 聖父 )が、ぶどう園( この世界 )にいちじくの木( ユダヤ人 )を植えておいた。そして、実を探しに来た( 悔い改めの実を結んで、神のご計画を遂行しているかどうか知ろうとされた )が、見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人( 主 )に言った。『 見なさい。三年間( 主のこの日までの三年間のご生涯 )、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。 』 番人は答えた。『 ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。・・・それでもだめなら・・・ 』 」とある。
a. ここで聖霊は、聖父が 《 人類との和解の為に、御子を遣わされた 》 との事実を伝えている。御子の働きから、悔い改めるべき人々の興起を期待しておられる聖父を。
b. ところが現実は ? 全世界の祝福の基として立てられた民族でありながら、何一つその使命を弁( わきま )えず、むしろ、選民であるとの優越感に浸って、頑( かたく )なままの現状。
c. 主は間もなく、三年の生涯を終えて、最後のエルサレム行きを十字架の日に向けて旅しておられる。
しかし主は、聖父の言われるように、悔い改めを迫っても迫っても一向に悔い改めようとしない頑ななユダヤ人から激しい敵意を抱かれながらも、聖父のこのお心の嘆きを知りつつ、尚、「ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます」と執り成す番人なのだ。
ここに、アガペーの愛を見る。最期の「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。 23章34節」にこそ顕著である。主のこの執り成しは空しくはなかった。隣の盗人が救われ、百人隊長が救われ、このおことばでどれだけの人々が・・・ 🎶
しかし大多数のユダヤ人は、遂に御子を十字架刑に処し、その結果、A.D.70年、エルサレムはローマ軍によって陥落し、滅亡し、全世界に離散の民となった歴史がある。

※ 未だ悔い改めざる人々の為に、執り成された主の如く、「どうか・・・木の周りを掘って・・・」の愛に生きる者でありたい。

この記事へのコメント