ルカの福音書12章35節~48節
先週、主が、13節 「遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください」と言って来た人を扱われた記事に学んだ。
14節のおことばは一見、問題を抱えているその人自身を拒絶しておられるように感じられるが、主は、私たちの日常生活に起こる問題に無関心な方ではないことを、22節以下の 《 烏 & 草花 》 を配慮される聖父の思いに見た。
主は、13節 「・・・兄弟に言ってください」と駈け込んで来た 《 彼の根本的問題の解決 》 に挑まれたのだ。主は、地上的( 束の間の、一時的な、表面的な )問題からの解放者ではなく、究極の解決を与える方だからだ。
主は15節で、彼の問題の中心である 《 貪欲 》 に触れられ、16~21節のたとえ話をもって的確に指導された。
ⅰ 貪欲とは、19節 「わが魂よ、これから先何年分も・・・」と、《 物質的豊かさで、魂を満足させる肉の性質 》 であること。
ⅱ 貪欲は ※ 20節 「愚か」であること。
それは、21節 「神に対して富まない者 ⇒ 神との関係において貧しい者」としての永遠の悲惨さを意味するからである。地上生活の最大の関心事が、何処にあるか ? の厳粛さは、その人の永遠を決定するという、ここにある。
ⅲ この警告に従うには、31節 「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば・・・」と 《 第一の関心事を吟味し 》、「御国」を第一に求める生活【神との正しい関係の維持だけを考えよ】の如何を吟味し、「そうすれば・・・加えて与えられる」ものへの執着を捨てること ⇒ コロサイ人への手紙 3章1~7節。
※ 32~34節を励みにしつつ、信仰の歩みに心したい、と。
今朝は、主が日々の生活における必要を煩( わずら )わず、「御国」を求める生活をと勧められて後、その生活が ※ 35節 「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい」と 《 主の再臨を期待し、常に意識されたものであるようにと警告された 》 ことに注目。
主はこのことを、36節 「主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい」というたとえ話から話された。
この話を聞いたペテロが突然、41節 「このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」と尋ねているが、主は即刻、42、43節 「主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです」と、実に、あなたがたのことだと言われた。
37、44節の「あなたがた」とは、47節 「主人の思いを知」らせて頂いているキリスト者、48節c 「多く与えられた者・・・多く任された者・・・」たちである。ということは、もしお互いが 《 主の御思いを知る者とされ、十字架の贖( あがな )いによって救いの経験に導き入れられ、多くの恵みに与らせて頂いている 》 キリスト者とされ、主の弟子【主に学ぶ者、主に従う者】とされているのであれば、私たちのことなのだ。
41節の「皆」とは、主に押し寄せて来ている群衆のことであり、48、「主人の思いを知らずにい」る人々のこと。又、42節 「家の召使いたち」、45節 「男女の召使いたち」で、管理人からの世話を受ける立場にある人々のこと。
そこで 《 主の再臨を待ち望む者の心得として 》 語られた ※ 35節 「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい」とある、具体的な生活態度に注目したい。この聖句は、マタイの福音書 25章の 《 十人の娘のたとえ話 》 に匹敵する箇所である。花婿なる主がいつ来られても慌てることなく、身支度を整え、器に油【聖霊】を満たして光を灯しているようにと。このような待ち望みの姿勢こそ、同 13節 「目を覚ましていなさい」に従った生活である。ルカでは、12章40節 「あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」である。39節の、泥棒の来る時間がいつなのかが分からないのに同様。もしその時間を知っていたならば、損失を被ることは無くて済むのだから、気をつけて居なさい、とある。
即ち、37a、38節 「目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸い」とあり、その実際は、47節 「その思いどおりに」働くという生活に他ならない。
この世に来られた主が、へブル人への手紙 10章9節 「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と仰った姿勢である。即ち、同 5章7~9節 「・・・従順を学び、完全な者とされ」に集約される 《 聖父への従順に生きること 》。主も又、ご自身への願いを選択する自由をお持ちだった。しかし悉( ことごと )く、聖父の思いが何であるかを絶えず聞きつつ、人の子の弱さを覚えるその都度、「自分を死から救い出すことができる方に向かって」祈られた。聖父の御心を知ることについて、夕拝( 1/31 )で、ローマ人への手紙 12章2節 「そうすれば」と学んだ。
① 「主人の・・・思いどおりに働」くとは ?
a. 42節 「・・・食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人」として任務を全うすること。
コリント人への手紙 第一 4章1、2節 「神の奥義【福音】の管理者【委託】・・・管理者に要求されることは、忠実【宣教、の証の責任】だと認められること」とある。どのような意味においても、個人的な理由【恐れ、自分の無力さの自覚】によって妨げられてはならない 《 重要な責任問題 》 であること。
b. 45節 「男女の召使いたち」との掛かり合いにおいて誠実であること ⇒ ローマ人への手紙 12章9、10節。
ここには、主の愛とは相容れない恐るべき人への蔑( さげす )み、虐待がある。彼らを養うどころか、彼らを食い物にし、自らの肉を満足させている。明らかに隣人への態度の如何は、即、主への態度であるだけに見逃せない試金石と覚えたい。
② 「主人の思いどおりに働く者」に備えられている祝福が、37節c 「主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます」であるとは !!
正に主は、ご自身の命をさえ与えて私たちに仕えて下さったお方。そのお方は、天においても再びとは、途方もない謙遜を。
③ 但し、48節 「多く与えられた者」の不忠実には警告が !!
※ 主の再臨の予告を侮らずに 《 待ち望む者 》 に求められている、主の「思いどおりに働く」お互いでありたい。
先週、主が、13節 「遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください」と言って来た人を扱われた記事に学んだ。
14節のおことばは一見、問題を抱えているその人自身を拒絶しておられるように感じられるが、主は、私たちの日常生活に起こる問題に無関心な方ではないことを、22節以下の 《 烏 & 草花 》 を配慮される聖父の思いに見た。
主は、13節 「・・・兄弟に言ってください」と駈け込んで来た 《 彼の根本的問題の解決 》 に挑まれたのだ。主は、地上的( 束の間の、一時的な、表面的な )問題からの解放者ではなく、究極の解決を与える方だからだ。
主は15節で、彼の問題の中心である 《 貪欲 》 に触れられ、16~21節のたとえ話をもって的確に指導された。
ⅰ 貪欲とは、19節 「わが魂よ、これから先何年分も・・・」と、《 物質的豊かさで、魂を満足させる肉の性質 》 であること。
ⅱ 貪欲は ※ 20節 「愚か」であること。
それは、21節 「神に対して富まない者 ⇒ 神との関係において貧しい者」としての永遠の悲惨さを意味するからである。地上生活の最大の関心事が、何処にあるか ? の厳粛さは、その人の永遠を決定するという、ここにある。
ⅲ この警告に従うには、31節 「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば・・・」と 《 第一の関心事を吟味し 》、「御国」を第一に求める生活【神との正しい関係の維持だけを考えよ】の如何を吟味し、「そうすれば・・・加えて与えられる」ものへの執着を捨てること ⇒ コロサイ人への手紙 3章1~7節。
※ 32~34節を励みにしつつ、信仰の歩みに心したい、と。
今朝は、主が日々の生活における必要を煩( わずら )わず、「御国」を求める生活をと勧められて後、その生活が ※ 35節 「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい」と 《 主の再臨を期待し、常に意識されたものであるようにと警告された 》 ことに注目。
主はこのことを、36節 「主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい」というたとえ話から話された。
この話を聞いたペテロが突然、41節 「このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」と尋ねているが、主は即刻、42、43節 「主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです」と、実に、あなたがたのことだと言われた。
37、44節の「あなたがた」とは、47節 「主人の思いを知」らせて頂いているキリスト者、48節c 「多く与えられた者・・・多く任された者・・・」たちである。ということは、もしお互いが 《 主の御思いを知る者とされ、十字架の贖( あがな )いによって救いの経験に導き入れられ、多くの恵みに与らせて頂いている 》 キリスト者とされ、主の弟子【主に学ぶ者、主に従う者】とされているのであれば、私たちのことなのだ。
41節の「皆」とは、主に押し寄せて来ている群衆のことであり、48、「主人の思いを知らずにい」る人々のこと。又、42節 「家の召使いたち」、45節 「男女の召使いたち」で、管理人からの世話を受ける立場にある人々のこと。
そこで 《 主の再臨を待ち望む者の心得として 》 語られた ※ 35節 「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい」とある、具体的な生活態度に注目したい。この聖句は、マタイの福音書 25章の 《 十人の娘のたとえ話 》 に匹敵する箇所である。花婿なる主がいつ来られても慌てることなく、身支度を整え、器に油【聖霊】を満たして光を灯しているようにと。このような待ち望みの姿勢こそ、同 13節 「目を覚ましていなさい」に従った生活である。ルカでは、12章40節 「あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」である。39節の、泥棒の来る時間がいつなのかが分からないのに同様。もしその時間を知っていたならば、損失を被ることは無くて済むのだから、気をつけて居なさい、とある。
即ち、37a、38節 「目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸い」とあり、その実際は、47節 「その思いどおりに」働くという生活に他ならない。
この世に来られた主が、へブル人への手紙 10章9節 「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と仰った姿勢である。即ち、同 5章7~9節 「・・・従順を学び、完全な者とされ」に集約される 《 聖父への従順に生きること 》。主も又、ご自身への願いを選択する自由をお持ちだった。しかし悉( ことごと )く、聖父の思いが何であるかを絶えず聞きつつ、人の子の弱さを覚えるその都度、「自分を死から救い出すことができる方に向かって」祈られた。聖父の御心を知ることについて、夕拝( 1/31 )で、ローマ人への手紙 12章2節 「そうすれば」と学んだ。
① 「主人の・・・思いどおりに働」くとは ?
a. 42節 「・・・食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人」として任務を全うすること。
コリント人への手紙 第一 4章1、2節 「神の奥義【福音】の管理者【委託】・・・管理者に要求されることは、忠実【宣教、の証の責任】だと認められること」とある。どのような意味においても、個人的な理由【恐れ、自分の無力さの自覚】によって妨げられてはならない 《 重要な責任問題 》 であること。
b. 45節 「男女の召使いたち」との掛かり合いにおいて誠実であること ⇒ ローマ人への手紙 12章9、10節。
ここには、主の愛とは相容れない恐るべき人への蔑( さげす )み、虐待がある。彼らを養うどころか、彼らを食い物にし、自らの肉を満足させている。明らかに隣人への態度の如何は、即、主への態度であるだけに見逃せない試金石と覚えたい。
② 「主人の思いどおりに働く者」に備えられている祝福が、37節c 「主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます」であるとは !!
正に主は、ご自身の命をさえ与えて私たちに仕えて下さったお方。そのお方は、天においても再びとは、途方もない謙遜を。
③ 但し、48節 「多く与えられた者」の不忠実には警告が !!
※ 主の再臨の予告を侮らずに 《 待ち望む者 》 に求められている、主の「思いどおりに働く」お互いでありたい。
この記事へのコメント