聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 60


ルカの福音書12章13節~34節

先週は、主が、パリサイ人による「激しい敵意」を受けられる中、弟子たちに「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい」と 《 厳格に与えられた忠告 》 に学んだ。
偽善とは、既に学んだ 《 外側は清めても、内側は強欲と邪悪で満ちている 》、うわべの敬虔さとは裏腹に汚れていること。
4節 「わたしの友であるあなたがたに」と 《 主は弟子たちとの友情の絆を明確に 》、リビングバイブル訳 「体を殺しても、たましいには指一本ふれることができない者たちを恐れてはいけません」と。

ⅰ 5節 ⇒ 仮に、弟子たちの肉体を殺したとしても、それ以上のことは出来ない。彼らがあなたがたを 『 殺した後で、ゲヘナ( 黙示録 20章11~15節 「火の池」「第二の死」のこと )に投げ込む権威を持っておられる方 』 が神だからと。

ⅱ 8、9節 ⇒ 実際、この忠告を聞いていたペテロは、捕縛された主を否むという恐ろしい裏切りを経験した。
ここで、10節 「・・・赦されます。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されません」には十分警戒したい。大罪を犯したペテロは、その直後、激しく泣き、悔い改めて赦された。
仮に弱さの故に、主を恥とすることがあるかも知れないが、罪人を悔い改めに導く聖霊を拒むことには赦しがない。

ⅲ 12節 「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」。
その為には、ヨハネ 16章4節 「話したことを・・・思い出すため」とあることから、日頃からの真面目な聖書的知識に与る生活には、心したい。

※ 弟子たちへの主の気遣いを、互いの心得としたい !! と。


今朝は、13節で「遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください」と言って来た人を扱われた記事に学ぶ。
主は、どのように対応されたのでしょうか ?
14節 「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」と言われる主は、問題を抱えているその人自身を拒絶しておられるように感じるかも知れない。
しかし主は、私たちの日常生活に起こる問題に無関心な方ではない。主はこの人の依頼を受けられて後、弟子たちに、22節から、「ですから」と、「何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい」と語られて、《 烏 & 草花 》 に対する細やかな配慮をして下さる聖父に思いを向けておられる。
烏( からす )のことから、24節 「・・・それでも、神は養っていてくださいます。あなたがたには、その鳥よりも、どんなに大きな価値があることでしょう」、草花のことから、28節 「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ」と言われた。
即ち、日常生活における必要に無関心どころか、30節 「・・・これらのものがあなたがたに必要であることは、・・・父が知っておられます」、31節 「あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます」、32節 「小さな群れよ、恐れることはありません」、むしろ、33節 「自分の財産を売って施しをしなさい」と、煩( わずら )いがちな重い頭をぐっと持ち上げて、主の生き方に招いておられる。

主は、13節 「・・・兄弟に言ってください。」と駈け込んで来たその人を 《 究極の救いに導こうとされた 》 のだ。
遺産相続の問題で起こるもめ事は決して穏やかなものではない !! 他人との関係で起こるものではなく、肉親間でのことだけに醜い感情問題を孕( はら )み、事態は破滅的でさえある。
しかし主は、その事態の収拾を図る為に奮闘【独り占めにさせないように、協力】されたのではなく、それを不足とする 《 彼の根本的、本質的問題の解決 》 に挑まれた。
彼の不満は、親の遺産を当てにしていることに始まる。又、自分を含めて兄弟の誰一人として、遺産に与れないのであれば未だしも、正当な自分の取り分・割り当て分があるにも拘らず、それを誰の許可もなく独り占めにして、良い思いをしているその兄弟が許し難く腹立たしい。そのような状況には、訴訟を起こして裁判沙汰に持ち込み、解決に長時間を要する。
主は全てを見越されて、彼を真の解決に導かれたのだ。
主は、地上的( 束の間の、一時的な、表面的な )問題からの解放者ではなく、究極の解決を与える方であられることに感謝したい。
主はメスを入れられた。何処に ?
彼を悩ませた 《 遺産の取り分がもらえないという事態 》 にではない。又 《 こうした事態を引き起こした兄弟を直接、主の御許に来させる 》 ということにでもない。
「私の兄弟に言ってください」と言って来た本人、即ち、こうした現実に縛られ、この現実を何とか解決してもらおうと必死になる 《 彼自身の心 》 にである。
15節 「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」と( 彼にだけではなく、周りの人々にも同じことが言える )、彼の問題の中心である 《 貪欲 》 に触れられ、16~21節のたとえ話をもって的確に指導された。主は 《 貪欲に警戒を !! 》 と言われた。

① 貪欲とは ?

16節に出て来る農夫の生活態度で説明されるが、19節 「わがたましいよ、これから先何年分も・・・」と、《 物質的豊かさをもって、魂を満足させる肉の性質 》 である。

② 貪欲の ※ 20節 「愚か」さ。

「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」からであり、魂の永遠を保証するものではない。
ということは、21節 「神に対して富まない者 ⇒ 神との関係において貧しい者」としての永遠の悲惨さを意味するからである。地上生活の最大の関心事が、何処にあるか ? の厳粛さは、その人の永遠を決定するという、ここにある。

③ この警告に従うには ?

31節 「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば・・・」と 《 第一の関心事を吟味し 》、「御国」を第一に求める生活【神との正しい関係の維持だけを考えよ】の如何を吟味し、「そうすれば・・・加えて与えられる」ものへの執着を捨てること ⇒ コロサイ人への手紙 3章1~7節。

※ 32~34節を励みにしつつ、信仰の歩みに心したい。

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