聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 59


ルカの福音書12章1節~12節

先週は、11章38節 「食事の前に、まずきよめ( 儀式的清め )の洗いをなさらな」い主を見て驚いた人々が、主から「わざわいだ」と叱責されたところに学んだ。

ⅰ 主が、直ちに扱われた 《 彼らの「わざわい」とは 》 ?
根本的な問題は、39節 「あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています」との指摘にある。即ち、彼らの最大の関心事がいつでも外側のきよさにしかなく、内側のきよさにはないという指摘。
a. 42節 ⇒ 形式主義。
b. 43節 ⇒ 自己誇示、高慢。
c. 44節 ⇒ 人々を知らないうちに汚している。
d. 46節 ⇒ 冷酷さ。
e. 47、48節 ⇒ れっきとした殺人者。 
f. 52節 ⇒ 無責任。

ⅱ 扱われた彼らは、どうしたのか ?
53、54節 「律法学者たち、パリサイ人たちはイエスに対して激しい敵意を抱き、多くのことについてしつこく質問攻めを始めた。彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと狙っていたのである」と。
45節 「・・・私たちまで侮辱することになります」と言う彼らは、自ら真理を伝える者でありながら、真理の前に謙って自らを吟味しようとはしない。自己満足的で独善的な態度を貫き、主の叱責を受け入れなかったことは致命的である。

※ 私たちは、主の語られるおことばから光を当てられ、自らの内面を探られては謙り、赦しと清めに与り続けたい、と。


今朝は、主が、11章53、54節に見るパリサイ人からの「激しい敵意」による攻撃を受けられ、12章1節 「数えきれないほどの群衆」たちに取り囲まれる中、弟子たちに「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい」と 《 厳重に警告された上での忠告 》 に学びたい。
この警告は、ご自身への殺意が本格化しつつある動きを洞察されてのこと。主の重荷が、やがて主に従う者であるが為に 《 パリサイ人から同様の敵意、迫害を受けるであろう弟子たち 》 にあったからである。
弟子たちが警戒しなければならなかったパリサイ人の問題は、「偽善」だった。偽善とは、仮面をかぶっていること、即ち、11章39節で既に学んだ 《 外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちている 》 とあったように、うわべの敬虔さとは裏腹な汚れの状態でいること。
主が ※ 2節で「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません」と言われたのは、偽善の仮面は〈 遅かれ早かれ 〉はがされて、彼らの正体が暴かれる時が来るとの警告である。
と同時に、この警戒すべき事実を踏まえて、主は ※3節 「ですから」と、弟子たちにも極めて重大な責任について語られた。この( 2節の )事実は、弟子たちにおいても心得なければならないことがあるとの忠告である。3節 現代訳 「わたしが内輪の弟子たちにだけ伝授した奥義を、今こそ公然と言い広め、伝道しなさい」とある。もし 《 公然と伝えることをしなければ、その責任は必ず問われることになる 》 と。
ここでなさった、主の弟子たちへの忠告に注目したい。
主は、弟子たちに、4節 「わたしの友であるあなたがたに」と 《 主との友情の絆を明確にされて 》、「からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません」と 《 恐れるべきお方を恐れるように 》 と激励された。
この聖句のリビングバイブル訳は、「体を殺しても、たましいには指一本ふれることができない者たちを恐れてはいけません」とある。

自らの激励のことばとする為に、知っておきたい。

① 5節 「殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい」。

仮に、弟子たちの肉体を殺害したとしても、それ以上のことは出来ない。へブル人への手紙 9章27節に、厳粛な事実が伝えられている。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と。殺人者があなたがたを 『 殺した後で、ゲヘナ( ヨハネの黙示録 20章11~15節 「火の池」「第二の死」のこと )に投げ込む権威を持っておられる方 』 が神であり、人の肉体の死後を扱う最高権威者だからであると。
迫害の故に殺害された者を敗北者と見做したとしても、神は、自らを勝者とするパリサイ人を、自らの罪の為に、悔い改めない罪と共に、最終的に裁かれるお方。
7節では、「あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです」とある。6節 「・・・そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません」とあるからである。

② 8、9節 「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます」。

実際、この忠告を聞いていたペテロは、捕縛された主を否むという恐ろしい裏切りを経験した。正に、この忠告によると、彼は当然「知らない」と言われる筈の者。しかし、彼は、この大罪を犯した直後、激しく泣き、悔い改めたことを覚えたい。この意味で、10節 「・・・赦されます。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されません」を考えることは重要。
仮に弱さの故に、主を恥とすることがあるかも知れない。しかし、一度そうだからというので、拒絶される訳ではない。真実な悔い改めに対しては、限りなく赦しがある。しかし、聖霊を冒涜する罪については、その余地はない。パリサイ人の罪、即ち、11章20節 「神の指( 御霊 )によって」いる主の働きを、悪霊によっているとした冒涜のこと。
罪人を悔い改めに導く唯一のお方を拒むからである。

③ 12節 「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」。

その為には、ヨハネの福音書 16章4節 「( わたしが )話したことを・・・思い出すため」とあることから、日頃からの真面目な聖書的知識に与る生活には、心したい。

※ 弟子たちへの主の気遣いを、互いの心得としたい !!

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