ルカの福音書11章37節~54節
先週は、《 主が灯された明かりのたとえ 》 による警告から、みことばを聞く者の心得に学び、自らの姿勢を正した。
33節a 「だれも、明かりをともして・・・」とあるのは、聖父が、御子をこの世に遣わされたことを意味し、その「明かりを」、「穴蔵の中や升( ます )の下に置く者はいません。燭台の上に置きます」とは、主が真理を明らかにされたことを意味する。
それは、33節b’ 「入って来た人たちに、その光が見えるようにするため」で、迫害、遂には死を覚悟されてのこと。
ⅰ 光を見たことによる恩沢とは ?
34節 《 全身も明るくなり 》、36節 《 全身が光に満ちたものとなる 》。罪の赦しと、罪の性質の清め、聖霊の注ぎが与えられ、マタイ 5章14節 「世の光です」とされる。
ⅱ 問題は、34節 「からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります」と、《 見た「光」を受け入れるのか ? 受け入れないのか ? 》 の一点にある。
a. 「詳訳 : あなたの目【良心】が健全なら」と、主の語られるところに誠実に応える心の態度 ⇒ 意図の純潔さ、たった一つの目的を意味し、ひたすら、真理の前に自らの罪を認め、救いを求めて謙る姿勢を取ること。但し、35節 ※ 光に留まり、36節 ※ 明け渡しの継続に注意深い生活には十分留意が必要。
b. 「詳訳 : あなたの目【良心】が不健全なら」と、主の語られるところに不誠実な心の態度 ⇒ 貪欲にしるしを求めるのみで光を避け、自らを正しいとして非を認めない頑( かたく )なな態度。
※ 与えられた光には即刻従い、光を放つ存在でありたい、と。
今朝の記事は、37節 ※ 主を食事に招いたある一人のパリサイ人が、38節 「食事の前に、まずきよめの洗いをなさらな」い主を見て驚いたことから、主がその彼を扱い、又、そこに途中に割り込んで来た律法の専門家を扱って、彼らの霊的問題を真っ向から「わざわいだ」と叱責されたところに学ぶ。
主が為さらなかった「きよめの洗い」とは、衛生上する食前の手洗いのことではなく、汚れからの清めを行うことをもって 《 自分を清い正しいとする儀式 》 のこと。実に、彼らはそうすることで敬虔を装っていたのだ。
① 主が ※ 39節 「すると」と、直ちに扱われた 《 彼らの「わざわい」とは 》 何だったのか ?
根本的問題は、「あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています」との指摘にある。即ち、彼らの最大の関心事がいつでも外側のきよさ【見栄えの良さ】にしかなく、内側のきよさ【心の純潔 ⇒ 41節 詳訳 「内なる自己を捧げ、内側の義」、42節 「正義と神への愛」】にはないという指摘である。
主のこうした指摘には、お互いにおいても十分注意しなければならない、根本的で重要な点である。
指摘された ※ 39節 「内側は強欲と邪悪( 悪意 )」は、彼らだけにある性質ではなく、全ての人の中に巣食っている罪深い性質である。ですから主が問題になさったのは、それがあるからではなく、そのような忌むべき性質を放置して、外側の良さにだけ関心を持っている点である
その彼らの実際的な態度に注目したい。
a. 42節 「ミント、うん香( 香辛料に使われる )、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならない」 ⇒ 形式主義。
b. 43節 「会堂の上席や、広場であいさつ( 詳訳 : 敬礼 )されることが好きだ」 ⇒ 自己誇示、高慢。
c. 44節 「人目につかない墓のようで、人々は、その上を歩いても気がつかない」 ⇒ 人々を知らないうちに汚している。
この「人目につかない墓」とは ? モーセの律法では、墓に触れる者はみな、七日間、汚れることになっていたので、もし、墓に 《 墓だというしるし 》 が付いていたならば、誰も敢えて触ろうとする者はいない。ところが 《 墓だというしるしが付いていない場合 》 は、人々は汚れるとは知らずに汚れることになる。主は、パリサイ人はそのようなものだと言われた。それは、あなたがたは「墓」のように汚れた者なのに、汚れているとは言わない( 外見的には清く見せている )為、あなたがたを汚れていると知らないで接している人々を、あなたがたは汚しているの意。
d. 46節 「人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない」 ⇒ 冷酷さ。
主は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。・・・わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い・・・ マタイの福音書 11章28~30節」と、ご自身が共に重荷を担ってくださっている。
e. 47、48節 「おまえたちは預言者たちの墓を建てているが、彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ。こうして・・・」 ⇒ れっきとした殺人者。
墓を建てることによって、あたかも預言者たちに敬意を払っているかのように見せ掛け、預言者を殺した先祖とは違う !! と言っているが、その実際は、49~51節 ※ あなたがたも先祖たちと同じだと。
f. 52節 「おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ」 ⇒ 無責任。
聖書学者でありながら自ら真理から遠く、妬みに燃えて、人々がキリストの許に行くことをも妨げている。
② 扱われた彼らは、どうしたのか ?
53、54節 「律法学者たち、パリサイ人たちはイエスに対して激しい敵意を抱き、多くのことについてしつこく質問攻めを始めた。彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと狙っていたのである」と。
あらゆる手立てを講じて、主を死刑に追い込もうとの企みに全エネルギーを費やすことに拍車をかけた。
45節 「・・・私たちまで侮辱することになります。」と言う彼らは、自ら真理を伝える者でありながら、真理の前に謙って自らを吟味しようとはしない。指摘を受けても、自己満足的で独善的な態度をもってでしか受け止めなかったことは致命的である。
※ 私たちは、主の語られるおことばから光を当てられ、自らの内面を探られては謙り、赦しと清めに与り続けたい。
先週は、《 主が灯された明かりのたとえ 》 による警告から、みことばを聞く者の心得に学び、自らの姿勢を正した。
33節a 「だれも、明かりをともして・・・」とあるのは、聖父が、御子をこの世に遣わされたことを意味し、その「明かりを」、「穴蔵の中や升( ます )の下に置く者はいません。燭台の上に置きます」とは、主が真理を明らかにされたことを意味する。
それは、33節b’ 「入って来た人たちに、その光が見えるようにするため」で、迫害、遂には死を覚悟されてのこと。
ⅰ 光を見たことによる恩沢とは ?
34節 《 全身も明るくなり 》、36節 《 全身が光に満ちたものとなる 》。罪の赦しと、罪の性質の清め、聖霊の注ぎが与えられ、マタイ 5章14節 「世の光です」とされる。
ⅱ 問題は、34節 「からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります」と、《 見た「光」を受け入れるのか ? 受け入れないのか ? 》 の一点にある。
a. 「詳訳 : あなたの目【良心】が健全なら」と、主の語られるところに誠実に応える心の態度 ⇒ 意図の純潔さ、たった一つの目的を意味し、ひたすら、真理の前に自らの罪を認め、救いを求めて謙る姿勢を取ること。但し、35節 ※ 光に留まり、36節 ※ 明け渡しの継続に注意深い生活には十分留意が必要。
b. 「詳訳 : あなたの目【良心】が不健全なら」と、主の語られるところに不誠実な心の態度 ⇒ 貪欲にしるしを求めるのみで光を避け、自らを正しいとして非を認めない頑( かたく )なな態度。
※ 与えられた光には即刻従い、光を放つ存在でありたい、と。
今朝の記事は、37節 ※ 主を食事に招いたある一人のパリサイ人が、38節 「食事の前に、まずきよめの洗いをなさらな」い主を見て驚いたことから、主がその彼を扱い、又、そこに途中に割り込んで来た律法の専門家を扱って、彼らの霊的問題を真っ向から「わざわいだ」と叱責されたところに学ぶ。
主が為さらなかった「きよめの洗い」とは、衛生上する食前の手洗いのことではなく、汚れからの清めを行うことをもって 《 自分を清い正しいとする儀式 》 のこと。実に、彼らはそうすることで敬虔を装っていたのだ。
① 主が ※ 39節 「すると」と、直ちに扱われた 《 彼らの「わざわい」とは 》 何だったのか ?
根本的問題は、「あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています」との指摘にある。即ち、彼らの最大の関心事がいつでも外側のきよさ【見栄えの良さ】にしかなく、内側のきよさ【心の純潔 ⇒ 41節 詳訳 「内なる自己を捧げ、内側の義」、42節 「正義と神への愛」】にはないという指摘である。
主のこうした指摘には、お互いにおいても十分注意しなければならない、根本的で重要な点である。
指摘された ※ 39節 「内側は強欲と邪悪( 悪意 )」は、彼らだけにある性質ではなく、全ての人の中に巣食っている罪深い性質である。ですから主が問題になさったのは、それがあるからではなく、そのような忌むべき性質を放置して、外側の良さにだけ関心を持っている点である
その彼らの実際的な態度に注目したい。
a. 42節 「ミント、うん香( 香辛料に使われる )、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならない」 ⇒ 形式主義。
b. 43節 「会堂の上席や、広場であいさつ( 詳訳 : 敬礼 )されることが好きだ」 ⇒ 自己誇示、高慢。
c. 44節 「人目につかない墓のようで、人々は、その上を歩いても気がつかない」 ⇒ 人々を知らないうちに汚している。
この「人目につかない墓」とは ? モーセの律法では、墓に触れる者はみな、七日間、汚れることになっていたので、もし、墓に 《 墓だというしるし 》 が付いていたならば、誰も敢えて触ろうとする者はいない。ところが 《 墓だというしるしが付いていない場合 》 は、人々は汚れるとは知らずに汚れることになる。主は、パリサイ人はそのようなものだと言われた。それは、あなたがたは「墓」のように汚れた者なのに、汚れているとは言わない( 外見的には清く見せている )為、あなたがたを汚れていると知らないで接している人々を、あなたがたは汚しているの意。
d. 46節 「人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない」 ⇒ 冷酷さ。
主は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。・・・わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い・・・ マタイの福音書 11章28~30節」と、ご自身が共に重荷を担ってくださっている。
e. 47、48節 「おまえたちは預言者たちの墓を建てているが、彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ。こうして・・・」 ⇒ れっきとした殺人者。
墓を建てることによって、あたかも預言者たちに敬意を払っているかのように見せ掛け、預言者を殺した先祖とは違う !! と言っているが、その実際は、49~51節 ※ あなたがたも先祖たちと同じだと。
f. 52節 「おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ」 ⇒ 無責任。
聖書学者でありながら自ら真理から遠く、妬みに燃えて、人々がキリストの許に行くことをも妨げている。
② 扱われた彼らは、どうしたのか ?
53、54節 「律法学者たち、パリサイ人たちはイエスに対して激しい敵意を抱き、多くのことについてしつこく質問攻めを始めた。彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと狙っていたのである」と。
あらゆる手立てを講じて、主を死刑に追い込もうとの企みに全エネルギーを費やすことに拍車をかけた。
45節 「・・・私たちまで侮辱することになります。」と言う彼らは、自ら真理を伝える者でありながら、真理の前に謙って自らを吟味しようとはしない。指摘を受けても、自己満足的で独善的な態度をもってでしか受け止めなかったことは致命的である。
※ 私たちは、主の語られるおことばから光を当てられ、自らの内面を探られては謙り、赦しと清めに与り続けたい。
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