ルカの福音書11章33節~36節
昨年最後の礼拝となった先聖日は、12月のクリスマス講壇を終えて 『 ルカ 』 の連講に戻り、11章29節 「この時代は悪い時代です」と嘆かれた主のおことばに学んだ。
それは彼らが、数多くの ※ しるしを目撃しては未だかつて見たこともないことだと主に驚嘆する人々だったにも拘らず、更に ※ 16節 「天からのしるしを要求し」て来る故に。
主は淡々と、 “ あなた方に必要なのは新たに奇跡を見ることではない !! 信じるのに十分なしるしは見ている。「ただし、ヨナのしるしは別です」 ” と、贖いの完成である復活だけは、これからあなた方は見ることになるがと、窘( たしな )められた。
その時語られた 《 頑なな態度への警告 》 に注目した。
ⅰ 31a、32節 「南の女王、ニネべの人々が・・・罪ありとします」。
ⅱ 何故、彼らが「この時代の人々を罪ありと」するのか ?
31節b’ 「彼女はソロモンの知恵を聞くために・・・来た」、32節c 「二ネべの人々はヨナの説教で悔い改めたから」と。
南の女王は、歴代誌 第二 9章1~9節 ※ 5、6節で、ソロモンの栄華に彼の偉大さを認めて謙ったが、ルカ 11章31節d 「ここにソロモンにまさるもの」である主ご自身を目の当たりにしながらも、主を礼拝しない不信仰の故に。
ヨナ書 3章3~5節で、ヨナの「たった一日分の道のりを歩き回って叫んだ」説教にさえ謙ったニネべの人々に比べて、ルカ 11章32節d 「ここにヨナにまさるもの」である主ご自身に対する態度が余りにも不信仰の故に。
※ 信じることにおいて、過去の経験に安住せずに、現在的営みと覚え、日々神のご意志に自らの意志を従わせたい、と。
今朝は、 《 主が灯された明かりのたとえ 》 から警告された、みことばを聞く者の心得に学び、自らの姿勢を正したい。
33節 「だれも、明かりをともして・・・」とあるのは、聖父が、御子を通して未だかつて見たことのない永遠の、消えることのない光をこの世にもたらす為に、御子をこの世に遣わされたことを意味する。
もたらされた光とは、「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。 ヨハネの福音書 1章9節」、「わたしは世の光です。 同 8章12節」と言われた主ご自身であり、又、光である主のご生涯によって世に明らかにされたしるしの数々である。11章20節 「わたしが神の指( マタイの福音書 12章28節 ⇒ 御霊 )によって悪霊どもを追い出している」事実、先週学んだように、南の女王が驚嘆して見たソロモンの知恵に勝る知恵者( 31節d )を見、ニネべの人々が聞いた説教に勝る説教( 32節d )を聞かされた一つ一つである。
その「明かりを」、33、「穴蔵の中や升( ます )の下に置く者はいません。燭台の上に置きます」とあるように、主は、ご自身の使命を遂行されたのだ。主は「話さなかったら、行わなかったら」迫害されることもなかったのに語り、行えば、15節 「悪霊どものかしらベブゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と罵倒されることをご存知で、隠すことなく、燭台の上に置いて、真理を明らかにされた。
それは、33節b’ 「入って来た人たちに、その光が見えるようにするためです」との目的の為で、そうすることによって起こるであろう迫害、遂には死を覚悟されてのこと。
主によって「光が見えるように」された今、光、即ち、主のことばとわざによって 《 神を知るようにされた ⇒ ヨハネの福音書 1章18節b 詳訳 「啓示された/目に見えないお方を見えるように現わされた/知らされた」 》 今、見たあなた方がどのような態度を取るかによって、光を見たことによる恩沢を受けるのか、そうでないのかが決まると、主は言われる。
① 光を見たことによる恩沢とは ?
34節 《 全身も明るくなり 》、36節 《 全身が光に満ちたものとなる 》 とあるが、何と示唆に富んだ恵みが約束されていることか !!
主は、ヨハネの福音書 10章10節bで、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」と言われた。或いは、同 4章14節で、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出でます」、同 7章38節 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」と。
お互いも、主の贖( あがな )いによって与えられた 《 自らの霊的経験 》 を見る時、主の語られたことが真実だったと知っている。実際的な経験としての 《 罪の赦し、罪の性質の清め 》 がなされ、その心に聖霊の注ぎが与えられ、内なる恵みが外に外にと、溢( あふ )れ流れ出て行くようになると !! 主が ※ マタイの福音書 5章14節 「あなたがは世の光です」と言われたようになる。
② 問題となる、11章34節 「からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります」と、《 見た「光」を受け入れるのか ? 受け入れないのか ? 》 について。
a. 「詳訳 : あなたの目【良心】が健全なら」と、主の語られるところに誠実に応える心の態度である。
主のことばは、私たちの頭脳にではなく、心に働き掛け、良心は悔い改めを迫られる。「良心が健全なら」とは、意図の純潔さ、たった一つの目的を意味し、そこには、ひたすらに、神の真理の前に自らの罪の事実を認め、救いを求めて謙る姿勢が。
但し、主の言われる ※ 35節 「自分のうちの光が闇にならないように」とある 《 光に留まり続ける注意深さ 》、36節 「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら」とある 《 明け渡しの継続に注意深い生活 》 には十分留意を。
b. 「詳訳 : あなたの目【良心】が不健全なら」と、主の語られるところに不誠実な心の態度である。
主の目の前にいる群衆たちがそうであったように、貪欲にも更にしるしを求める姿勢である。心照らされて明るみにされる自らの罪の事実に背を向け、自らをあくまでも正しいとして非を認めず、かえって語る主を「悪霊につかれている」と訴え、それ以上言わせまいとする頑( かたく )なな態度のこと。
a. b. ⇒ 詩篇32篇5、10、11節
※ 与えられた光には即刻従い、光を放つ存在でありたい。
昨年最後の礼拝となった先聖日は、12月のクリスマス講壇を終えて 『 ルカ 』 の連講に戻り、11章29節 「この時代は悪い時代です」と嘆かれた主のおことばに学んだ。
それは彼らが、数多くの ※ しるしを目撃しては未だかつて見たこともないことだと主に驚嘆する人々だったにも拘らず、更に ※ 16節 「天からのしるしを要求し」て来る故に。
主は淡々と、 “ あなた方に必要なのは新たに奇跡を見ることではない !! 信じるのに十分なしるしは見ている。「ただし、ヨナのしるしは別です」 ” と、贖いの完成である復活だけは、これからあなた方は見ることになるがと、窘( たしな )められた。
その時語られた 《 頑なな態度への警告 》 に注目した。
ⅰ 31a、32節 「南の女王、ニネべの人々が・・・罪ありとします」。
ⅱ 何故、彼らが「この時代の人々を罪ありと」するのか ?
31節b’ 「彼女はソロモンの知恵を聞くために・・・来た」、32節c 「二ネべの人々はヨナの説教で悔い改めたから」と。
南の女王は、歴代誌 第二 9章1~9節 ※ 5、6節で、ソロモンの栄華に彼の偉大さを認めて謙ったが、ルカ 11章31節d 「ここにソロモンにまさるもの」である主ご自身を目の当たりにしながらも、主を礼拝しない不信仰の故に。
ヨナ書 3章3~5節で、ヨナの「たった一日分の道のりを歩き回って叫んだ」説教にさえ謙ったニネべの人々に比べて、ルカ 11章32節d 「ここにヨナにまさるもの」である主ご自身に対する態度が余りにも不信仰の故に。
※ 信じることにおいて、過去の経験に安住せずに、現在的営みと覚え、日々神のご意志に自らの意志を従わせたい、と。
今朝は、 《 主が灯された明かりのたとえ 》 から警告された、みことばを聞く者の心得に学び、自らの姿勢を正したい。
33節 「だれも、明かりをともして・・・」とあるのは、聖父が、御子を通して未だかつて見たことのない永遠の、消えることのない光をこの世にもたらす為に、御子をこの世に遣わされたことを意味する。
もたらされた光とは、「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。 ヨハネの福音書 1章9節」、「わたしは世の光です。 同 8章12節」と言われた主ご自身であり、又、光である主のご生涯によって世に明らかにされたしるしの数々である。11章20節 「わたしが神の指( マタイの福音書 12章28節 ⇒ 御霊 )によって悪霊どもを追い出している」事実、先週学んだように、南の女王が驚嘆して見たソロモンの知恵に勝る知恵者( 31節d )を見、ニネべの人々が聞いた説教に勝る説教( 32節d )を聞かされた一つ一つである。
その「明かりを」、33、「穴蔵の中や升( ます )の下に置く者はいません。燭台の上に置きます」とあるように、主は、ご自身の使命を遂行されたのだ。主は「話さなかったら、行わなかったら」迫害されることもなかったのに語り、行えば、15節 「悪霊どものかしらベブゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と罵倒されることをご存知で、隠すことなく、燭台の上に置いて、真理を明らかにされた。
それは、33節b’ 「入って来た人たちに、その光が見えるようにするためです」との目的の為で、そうすることによって起こるであろう迫害、遂には死を覚悟されてのこと。
主によって「光が見えるように」された今、光、即ち、主のことばとわざによって 《 神を知るようにされた ⇒ ヨハネの福音書 1章18節b 詳訳 「啓示された/目に見えないお方を見えるように現わされた/知らされた」 》 今、見たあなた方がどのような態度を取るかによって、光を見たことによる恩沢を受けるのか、そうでないのかが決まると、主は言われる。
① 光を見たことによる恩沢とは ?
34節 《 全身も明るくなり 》、36節 《 全身が光に満ちたものとなる 》 とあるが、何と示唆に富んだ恵みが約束されていることか !!
主は、ヨハネの福音書 10章10節bで、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」と言われた。或いは、同 4章14節で、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出でます」、同 7章38節 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」と。
お互いも、主の贖( あがな )いによって与えられた 《 自らの霊的経験 》 を見る時、主の語られたことが真実だったと知っている。実際的な経験としての 《 罪の赦し、罪の性質の清め 》 がなされ、その心に聖霊の注ぎが与えられ、内なる恵みが外に外にと、溢( あふ )れ流れ出て行くようになると !! 主が ※ マタイの福音書 5章14節 「あなたがは世の光です」と言われたようになる。
② 問題となる、11章34節 「からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります」と、《 見た「光」を受け入れるのか ? 受け入れないのか ? 》 について。
a. 「詳訳 : あなたの目【良心】が健全なら」と、主の語られるところに誠実に応える心の態度である。
主のことばは、私たちの頭脳にではなく、心に働き掛け、良心は悔い改めを迫られる。「良心が健全なら」とは、意図の純潔さ、たった一つの目的を意味し、そこには、ひたすらに、神の真理の前に自らの罪の事実を認め、救いを求めて謙る姿勢が。
但し、主の言われる ※ 35節 「自分のうちの光が闇にならないように」とある 《 光に留まり続ける注意深さ 》、36節 「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら」とある 《 明け渡しの継続に注意深い生活 》 には十分留意を。
b. 「詳訳 : あなたの目【良心】が不健全なら」と、主の語られるところに不誠実な心の態度である。
主の目の前にいる群衆たちがそうであったように、貪欲にも更にしるしを求める姿勢である。心照らされて明るみにされる自らの罪の事実に背を向け、自らをあくまでも正しいとして非を認めず、かえって語る主を「悪霊につかれている」と訴え、それ以上言わせまいとする頑( かたく )なな態度のこと。
a. b. ⇒ 詩篇32篇5、10、11節
※ 与えられた光には即刻従い、光を放つ存在でありたい。
この記事へのコメント