使徒の働き4章23節~31節
年頭に当たり、ペンテコステ( 五旬節 )の出来事によって誕生したばかりの教会に、早くも迫害の波がにわかに押し寄せて来た場面に注目してメッセージとしたい。
迫害は、現代の共産圏に限った問題ではない。
仮に国家的規模における迫害はないとしても、主が最後の晩餐の席で語られたと思われる 《 ヨハネの福音書 15章18~25節 》 に耳を傾ける限り、迫害は、どのような国に国籍を持っているかに関係なく、主に従う立場を明確にするところに起こるものだと伝えられているからである。
ここで言われる「世」とは、神に敵対し、「この世の神」と呼ばれるサタンに支配されている世界のことで、もし、私たちがキリスト者としての立場を明確にするならば、必ずや何らかの無理解、摩擦、抵抗、反抗、抗議、最悪な場合は、死に至らせられるということ。
この世界は、神に属するのか、サタンに属するのかの何れかの帰属しかないと、主は明確にしておられる。
今朝の記事は、正に、使徒ペテロとヨハネとが自らの帰属を明確にしたことに始まった迫害である ⇒ 18~20節。
私たちにおいても、自らが 《 この世のものではなく、この世から選び出された者で、主に属する者 》 との立場を明確にする時、大なり小なり、遅かれ早かれ、迫害に準じた抵抗が生じて来ることは、避けられない現実。
今朝の記事を学ぶに際して、自らの態度を調べた上で 《 主に属する者であるということを大前提として 》 避けられない現実を前に教会は、どういう所だったのか ? を考えたい。
① 23節 「釈放された二人は仲間のところに行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した」とあるが 《 報告し合う仲間の群れだった 》 こと。
32~35節 「さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。・・・彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった」とある。経済的事情を知るということは極めてデリケートな問題であるにも拘らず、互いの状況を知って補い合うことが出来ているということは、驚くべき一致である。互いの信頼関係が築き上げられている、真の神の家族として存在している証である。
極めて現実的で、実際的な交わりがなされている限り、現在直面している問題を共有しているということであり、孤立せずに知り合っているということである。
初代教会と違って、一緒に集まる点では制約があるにしても、月二回許されているコイノニヤでの交わりは、非常に貴重な時間、場である。誰一人、孤立した状態では健全な信仰生活を送ることは出来ないとの認識を新たにしたい。
② 24節 「これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた」と 《 祈る群れだった 》 こと。
その祈りは、極めて冷静で慌ただしくない。その特色は ?
a. 物事を神の視点から見た祈り。
即ち起こり来る全ての出来事を、神の摂理の中で行われているという読み方が出来ているということにある。
28節 「あなたの御手とご計画によって、起こるように前もって定められていたことすべてを行いました」と言い切る信仰である。
それはやはり、聖書に通じていることによる。
25~27節 「あなたは聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『 なぜ、異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの国民はむなしいことを企むのか・・・ 』 事実、ヘロデとポンティオ・ピラトは・・・」と、聖書を理解し、適用において正確である。
私たちにおいても、今日起こる事、明日何が起こることになっても、しっかり 《 神の視点で物事を考える習慣 》 を、聖書に親しむことによって会得する者でありたい。
私たちが狼狽( うろた )えるのは、問題の全てを直ちに目に見えることで判断し、決して 《 聖書では ? 神はどの様に ? 》 と、信仰の目を向けようとしないことにある。
b. 29節 「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」との被害者意識ではなく、積極的に神の干渉を祈る祈り。
それは、教会が完全に 《 神のものとの意識が明確 》 だったことにある。9章4節 「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」に顕著。教会を迫害する時、主はご自身への痛みとして感じ、直接、迫害者に向かって干渉されるお方だからである。
c. 31節 「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」という結果を見た祈り。
彼らは、迫害によって決して敗北してはいない。
コリント人への手紙 第二 4章7~18節 「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです」。
同じく、コリント人への手紙 第二 6章1~10節 ※ 9、10節 「人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」という、逆説的な生き方をもって勝ち誇るのが主のご生涯の特色であり、キリストに従う教会の特色ともなる。
※ この元旦礼拝から始まる2018年も、全てがご自身の御手に握られている主に属する【19、20節 「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」との明確な意志表示する】者であるとの意識を新たにして踏み出したい。
年頭に当たり、ペンテコステ( 五旬節 )の出来事によって誕生したばかりの教会に、早くも迫害の波がにわかに押し寄せて来た場面に注目してメッセージとしたい。
迫害は、現代の共産圏に限った問題ではない。
仮に国家的規模における迫害はないとしても、主が最後の晩餐の席で語られたと思われる 《 ヨハネの福音書 15章18~25節 》 に耳を傾ける限り、迫害は、どのような国に国籍を持っているかに関係なく、主に従う立場を明確にするところに起こるものだと伝えられているからである。
ここで言われる「世」とは、神に敵対し、「この世の神」と呼ばれるサタンに支配されている世界のことで、もし、私たちがキリスト者としての立場を明確にするならば、必ずや何らかの無理解、摩擦、抵抗、反抗、抗議、最悪な場合は、死に至らせられるということ。
この世界は、神に属するのか、サタンに属するのかの何れかの帰属しかないと、主は明確にしておられる。
今朝の記事は、正に、使徒ペテロとヨハネとが自らの帰属を明確にしたことに始まった迫害である ⇒ 18~20節。
私たちにおいても、自らが 《 この世のものではなく、この世から選び出された者で、主に属する者 》 との立場を明確にする時、大なり小なり、遅かれ早かれ、迫害に準じた抵抗が生じて来ることは、避けられない現実。
今朝の記事を学ぶに際して、自らの態度を調べた上で 《 主に属する者であるということを大前提として 》 避けられない現実を前に教会は、どういう所だったのか ? を考えたい。
① 23節 「釈放された二人は仲間のところに行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した」とあるが 《 報告し合う仲間の群れだった 》 こと。
32~35節 「さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。・・・彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった」とある。経済的事情を知るということは極めてデリケートな問題であるにも拘らず、互いの状況を知って補い合うことが出来ているということは、驚くべき一致である。互いの信頼関係が築き上げられている、真の神の家族として存在している証である。
極めて現実的で、実際的な交わりがなされている限り、現在直面している問題を共有しているということであり、孤立せずに知り合っているということである。
初代教会と違って、一緒に集まる点では制約があるにしても、月二回許されているコイノニヤでの交わりは、非常に貴重な時間、場である。誰一人、孤立した状態では健全な信仰生活を送ることは出来ないとの認識を新たにしたい。
② 24節 「これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた」と 《 祈る群れだった 》 こと。
その祈りは、極めて冷静で慌ただしくない。その特色は ?
a. 物事を神の視点から見た祈り。
即ち起こり来る全ての出来事を、神の摂理の中で行われているという読み方が出来ているということにある。
28節 「あなたの御手とご計画によって、起こるように前もって定められていたことすべてを行いました」と言い切る信仰である。
それはやはり、聖書に通じていることによる。
25~27節 「あなたは聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『 なぜ、異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの国民はむなしいことを企むのか・・・ 』 事実、ヘロデとポンティオ・ピラトは・・・」と、聖書を理解し、適用において正確である。
私たちにおいても、今日起こる事、明日何が起こることになっても、しっかり 《 神の視点で物事を考える習慣 》 を、聖書に親しむことによって会得する者でありたい。
私たちが狼狽( うろた )えるのは、問題の全てを直ちに目に見えることで判断し、決して 《 聖書では ? 神はどの様に ? 》 と、信仰の目を向けようとしないことにある。
b. 29節 「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」との被害者意識ではなく、積極的に神の干渉を祈る祈り。
それは、教会が完全に 《 神のものとの意識が明確 》 だったことにある。9章4節 「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」に顕著。教会を迫害する時、主はご自身への痛みとして感じ、直接、迫害者に向かって干渉されるお方だからである。
c. 31節 「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」という結果を見た祈り。
彼らは、迫害によって決して敗北してはいない。
コリント人への手紙 第二 4章7~18節 「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです」。
同じく、コリント人への手紙 第二 6章1~10節 ※ 9、10節 「人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」という、逆説的な生き方をもって勝ち誇るのが主のご生涯の特色であり、キリストに従う教会の特色ともなる。
※ この元旦礼拝から始まる2018年も、全てがご自身の御手に握られている主に属する【19、20節 「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」との明確な意志表示する】者であるとの意識を新たにして踏み出したい。
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