聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 56


ルカの福音書11章29節~32節

12月の講壇は四回に亘ってクリスマスを記念し、11章28節 「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たち」をテーマに、主の母マリアと夫ヨセフの神への従順、そして、主の聖父への完全な従順について注目した。
主の従順は、へブル人への手紙 5章8節 「御子であられるのに」、7節 「肉体をもって生きている間」という人の子としての生涯を選択してくださったことに始まったと。
「御子であられるのに」とは、同 1章3節 「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました」という神ご自身であられるのに、人の子としてのお扱いの中、身代わりの小羊となるべく、完全な謙りをもっての聖父への従順を全うしてくださったということであるその 《 完全な謙りをもって 》 とは ?

ⅰ 人の子としての無力を徹底的に自覚されて「聞き入れられました」との祈りを捧げられたこと。

ⅱ 聖父を「・・・できる方」と信頼し、聖父に「向かって」真剣な祈りと正直な祈りの生活を送られたこと。

ⅲ その生活を聖霊は「敬虔」と認め、「その敬虔のゆえに聞き入れられました」と、即ち、聖父の御心には従いたいとする 《 堅固な意志 》 を持っておられたこと。

※ 主は日々、「様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ」て無傷の小羊としてご自身を捧げ、「永遠の救いの源」となられた主の犠牲を覚えて、聖餐式に与った。


今朝から連講ルカに戻り、11章29節 「この時代は悪い時代です」と嘆かれた主のおことばに学びたい。
どの様な意味で「悪い時代」だと嘆かれたのか ?
このおことばに次いで、「しるしを求めますが」とあるが、既に、16節で群衆たちはイエスを試みようとして、「天からのしるしを要求し」ていた。彼らはこれまで、数多くの ※ しるし( 証拠としての奇跡 )を目撃しては、未だかつて見たこともないと言って驚嘆して来た人々なのだ !!
にも拘らず、「天からのしるし」即ち、天を見上げて、力ある超自然的なわざを見せてくれさえすれば、いとも簡単にあなたを救い主として信じるのにと嘯( うそぶ )くのだ。
主は洞察しておられる。彼らは " 主のわざを見せてくれたら、見せてくれさえすれば " と言うが、自分たちの頑( かたく )なさ、主を救い主だとは認めたがらない生来のプライドに触れさせまいとしているだけのことだと !!
主は淡々と言われる。あなた方に必要なのは新たに奇跡を見ることではない !! 信じるのに十分なしるしは見ている。「ただし、ヨナのしるしは別です」と。
それは、マタイの福音書 12章40節 「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」と言われた 《 これから実現する十字架の死後の復活 》 のことである。ルカの福音書 11章30節 「人の子がこの時代のために、しるしとなるから」と、贖( あがな )いの完成である復活だけは、これからあなた方は見ることになる。復活こそは奇跡中の奇跡であり、誰にも有無を言わせない、決定的な奇跡を、と。

主が、その見ても信じようとしない群衆を諭( さと )す為に仰った記事から 《 頑なな態度の恐ろしさ 》 を学んで、メッセージとしたい。
その厳粛さは、11章31節 「南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします」、32節 「二ネべの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします」と、ここにある。

① 「罪ありとします」とは ?

罪に定められるの意。彼らが【殺人者、不義を働くという具体的な】犯罪者だからという訳ではない。
「罪に定められる」とは、主を拒むことへの裁きである。
彼らは主が正しいお方だと認めていた。
マタイの福音書 22章16節 「先生。私たちは、あなたが真実な方で・・・」、ヨハネの福音書 10章33節 「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒涜のためだ」と。にも拘らず、受け入れない、これが罪。神のご意志を故意に拒絶することで、ヨハネの福音書 3章19~21節にその理由が明確。唯、神を認めたがらないだけのこと。その為、自ら裁きを招いている。同 16章9節 「罪についてというのは、彼らがわたしを信じない【信頼しない、より頼まない、結びつかない】からです」とある。

② 何故、31節 「南の女王」が、32節 「二ネべの人々」が、「この時代の人々を罪ありと」するのか ?

31節b’ 「彼女はソロモンの知恵を聞くために・・・来た」、32節c 「二ネべの人々はヨナの説教で悔い改めたから」と。
南の女王は、歴代誌 第二 9章1~9節 ※ 5、6節 「彼女は王に言った。『 私が国であなたの事績とあなたの知恵について聞き及んでいたことは、本当でした。私は自分で来て、自分の目で見るまでは、彼らの言うことを信じなかったのですが、なんと、私にはあなたの知恵のすばらしさを半分も知らされていなかったのです。あなたは、私が聞いていたうわさを上回る方でした・・・ 』 」と感嘆し、賛辞を惜しまなかった。
シェバの女王は、ソロモンの栄華を目の当たりにした時、それを紛れもない彼の偉大さと認めて謙ったが、ルカの福音書 11章31節d 「しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります」と言われる主ご自身を目の当たりにしながらも決して、主に相応しい礼拝もなく不信仰の故に。
二ネべの人々は、ヨナ書 3章3~5節 「・・・まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。・・・すると、二ネべの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった」とあり、真剣に悔い改めたのだ。
ヨナの「たった一日分の道のりを歩き回って叫んだ」説教にさえ謙った二ネべの人々に比べて、ルカの福音書 11章32節d 「しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります」と言われる主ご自身に対する態度が余りにも不信仰の故に。

※ 「信じる」とは、過去の経験に安住すべきではなく、現在的営みと覚え、日々神のご意志に自らの意志を従わせたい。

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