マタイの福音書2章13節~23節
先聖日は、マリアの従順に次いで、マリアの懐妊が「聖霊によって身ごも」ったものとは知らずに苦悩したヨセフに、「神のことばを聞いてそれを守る人」の信仰の姿勢を学んだ。
ⅰ 1章19節 「夫のヨセフは正しい( 聖書に忠実な )人」との聖霊の証を得て、全ての思いを一つにして主に従わせたヨセフ。
マリアの懐妊は、どう考えても結婚関係なくして起こった不貞関係・不義の関係以外には考えられないことで、律法によれば裁きは免(まぬか)れ得ない、明らかに姦淫罪である。
この事実に苦しんだヨセフは、この難題を 《 マリアに向けずに、20節 詳訳 「このことを熟慮していると・・・」と、主に向けた 》。ここに彼の正しさを見る。
直接事情を婚約者マリアに聴くことも出来たが、そのことによって、沈黙しているマリアを追い込むことになるであろうと気遣って主に委( ゆだ )ね、ひたすら、「マリアをさらし者にしたくな」いとだけ考え、「ひそかに離縁」する以外に彼女を救う道がないと、「思い巡らしていた」ヨセフ。「正しい人」とは、聖書の教えの中心である 《 愛に生きる人 》 のこと。
ⅱ 20b~23節 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」との告知を受けた時、24節 「・・・主の使いが命じたとおりにし・・・」たヨセフ。
自らが決断したことに固執しない姿勢は素晴らしい。
それは、《 あくまでも、自分の思いではなく、主の御心にのみ従いたい 》 とする明け渡しの姿勢に生きているから。
※ いつでも柔軟に主に従う準備された信仰者でありたいと。
今朝もマタイの福音書から、引き続き、ヨセフの従順に注目したい。
今朝の2章の記事では、主が、23節 「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して 『 彼はナザレ人と呼ばれる 』 と語られたことが成就するため」に、ヨセフは地上の父親としての立場で、重要な役割を従順によって見事に果たしたと学びたい。
この「預言者たちを通して 『 彼はナザレ人と呼ばれる 』 と語られたこと」とあるが、旧約聖書の何処にも見出せない言葉。従って、ヨハネの福音書 1章46節 「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と言われた言葉が意味する侮辱的処遇を受ける生涯を送る人との意味で、多くの預言者によって語られて来ている。イザヤ書 53章は代表的である。
主のご生涯を的確に象徴する「ナザレ」に、幼子イエスを、様々な危険極まりない状況の中お連れするのに、ヨセフの功労があり、取りも直さず、ヨセフの従順によったのだ。
ヨセフの生涯は、母マリア程、その存在感はない。
聖書に登場する場面は、マタイではここで終わっており、他ではルカの記事の2章【1~7節 ⇒ 人口調査の為に「ダビデの町へ上って行った」折、主がベツレヘムで誕生されたこと。15~20節 ⇒ 羊飼いたちの訪問を受けられたこと。21~35節 ⇒ 誕生8日目にして割礼を受けられ、「きよめの期間が満ち」て神殿に上られたこと。《 この間に、今朝のマタイの記事が入る ⇒ ベツレヘムからエジプト経由でナザレの町への旅 》 41~52節 ⇒ 12歳で律法の子となる儀式に臨まれたエルサレム神殿での出来事】と、詳細な記録がある。
この記事以降、ヨセフはその姿を消している。
こうして見る限り、目立った印象はない。
母マリアは、主の十字架の死を目撃しなければならず、主の最期で、ヨハネの福音書 19章26節 「イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に 『 女の方、ご覧なさい。あなたの息子です 』 と言われた。それから、その弟子に 『 ご覧なさい。あなたの母です 』 と言われ」、老後まで気遣われている。
この日の為に、乳飲み子イエスを抱えて入った宮でのこと、敬虔な老人シメオンによって、ルカの福音書 2章35節 「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫く・・・」と預言されている。
しかしマリア程、存在感がなかったとは言え、ヨセフの従順によって主が、やがての日に備えられた事実に注目を。
ヨセフの従順は、主のご降誕による贖( あがな )いを阻止しようと、手ぐすね引いて待ち構えていたサタンの魔の手から幼子を守って、遂に、ナザレの町にお連れするまでの厳しい道のりでのことである。
マタイの福音書には、主がベツレヘムの家畜小屋で産声を上げられたことについての記事がなく、その後、場所をある家に移された時からの記録になっている。
それが、2章11節、「それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」に見る。
2章2節 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星( 民数記 24章17節 )が昇るのを見たので、礼拝するために・・・」やって来た博士たちの訪問を受けるところからである。
① ヨセフの従順の実践は・・・
a. 2章13節 「彼らが帰って行くと・・・ヨセフに現れて言った。『 立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。・・・殺そうとしています。 』 」に対する、14、15節 「そこでヨセフは立って、夜のうちに・・・逃( のが )れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた」に。
b. 19、20節 「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。『 立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい・・・ 』 」に対する、21~23節 「そこで、ヨセフは立って・・・入った。しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行くのを恐れた。さらに、夢で警告を受けたので、ガリラヤ地方に退いた。・・・ナザレ・・・に行って住んだ」に。
② ヨセフの従順の鍵は・・・
a. 「主の使い」の指示を聞き逃すまいとする忠実さ。
「幼子を殺そうとしています」という緊急事態での顕現。ヨセフはたった今、博士たちから幼子の生涯を象徴する贈り物に与ったばかり。その厳かさの余韻を噛みしめながら、尋常ではない状況判断が出来ていた。
b. 聞かされたことへの即刻の対応。
c. 「入った。しかし」と、聞いては従うという姿勢が、主との絶えざる継続的で、瞬時の交わりの中で為されている。
※ 主への従順には、いい加減さのない真面目さが肝要。
先聖日は、マリアの従順に次いで、マリアの懐妊が「聖霊によって身ごも」ったものとは知らずに苦悩したヨセフに、「神のことばを聞いてそれを守る人」の信仰の姿勢を学んだ。
ⅰ 1章19節 「夫のヨセフは正しい( 聖書に忠実な )人」との聖霊の証を得て、全ての思いを一つにして主に従わせたヨセフ。
マリアの懐妊は、どう考えても結婚関係なくして起こった不貞関係・不義の関係以外には考えられないことで、律法によれば裁きは免(まぬか)れ得ない、明らかに姦淫罪である。
この事実に苦しんだヨセフは、この難題を 《 マリアに向けずに、20節 詳訳 「このことを熟慮していると・・・」と、主に向けた 》。ここに彼の正しさを見る。
直接事情を婚約者マリアに聴くことも出来たが、そのことによって、沈黙しているマリアを追い込むことになるであろうと気遣って主に委( ゆだ )ね、ひたすら、「マリアをさらし者にしたくな」いとだけ考え、「ひそかに離縁」する以外に彼女を救う道がないと、「思い巡らしていた」ヨセフ。「正しい人」とは、聖書の教えの中心である 《 愛に生きる人 》 のこと。
ⅱ 20b~23節 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」との告知を受けた時、24節 「・・・主の使いが命じたとおりにし・・・」たヨセフ。
自らが決断したことに固執しない姿勢は素晴らしい。
それは、《 あくまでも、自分の思いではなく、主の御心にのみ従いたい 》 とする明け渡しの姿勢に生きているから。
※ いつでも柔軟に主に従う準備された信仰者でありたいと。
今朝もマタイの福音書から、引き続き、ヨセフの従順に注目したい。
今朝の2章の記事では、主が、23節 「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して 『 彼はナザレ人と呼ばれる 』 と語られたことが成就するため」に、ヨセフは地上の父親としての立場で、重要な役割を従順によって見事に果たしたと学びたい。
この「預言者たちを通して 『 彼はナザレ人と呼ばれる 』 と語られたこと」とあるが、旧約聖書の何処にも見出せない言葉。従って、ヨハネの福音書 1章46節 「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と言われた言葉が意味する侮辱的処遇を受ける生涯を送る人との意味で、多くの預言者によって語られて来ている。イザヤ書 53章は代表的である。
主のご生涯を的確に象徴する「ナザレ」に、幼子イエスを、様々な危険極まりない状況の中お連れするのに、ヨセフの功労があり、取りも直さず、ヨセフの従順によったのだ。
ヨセフの生涯は、母マリア程、その存在感はない。
聖書に登場する場面は、マタイではここで終わっており、他ではルカの記事の2章【1~7節 ⇒ 人口調査の為に「ダビデの町へ上って行った」折、主がベツレヘムで誕生されたこと。15~20節 ⇒ 羊飼いたちの訪問を受けられたこと。21~35節 ⇒ 誕生8日目にして割礼を受けられ、「きよめの期間が満ち」て神殿に上られたこと。《 この間に、今朝のマタイの記事が入る ⇒ ベツレヘムからエジプト経由でナザレの町への旅 》 41~52節 ⇒ 12歳で律法の子となる儀式に臨まれたエルサレム神殿での出来事】と、詳細な記録がある。
この記事以降、ヨセフはその姿を消している。
こうして見る限り、目立った印象はない。
母マリアは、主の十字架の死を目撃しなければならず、主の最期で、ヨハネの福音書 19章26節 「イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に 『 女の方、ご覧なさい。あなたの息子です 』 と言われた。それから、その弟子に 『 ご覧なさい。あなたの母です 』 と言われ」、老後まで気遣われている。
この日の為に、乳飲み子イエスを抱えて入った宮でのこと、敬虔な老人シメオンによって、ルカの福音書 2章35節 「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫く・・・」と預言されている。
しかしマリア程、存在感がなかったとは言え、ヨセフの従順によって主が、やがての日に備えられた事実に注目を。
ヨセフの従順は、主のご降誕による贖( あがな )いを阻止しようと、手ぐすね引いて待ち構えていたサタンの魔の手から幼子を守って、遂に、ナザレの町にお連れするまでの厳しい道のりでのことである。
マタイの福音書には、主がベツレヘムの家畜小屋で産声を上げられたことについての記事がなく、その後、場所をある家に移された時からの記録になっている。
それが、2章11節、「それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」に見る。
2章2節 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星( 民数記 24章17節 )が昇るのを見たので、礼拝するために・・・」やって来た博士たちの訪問を受けるところからである。
① ヨセフの従順の実践は・・・
a. 2章13節 「彼らが帰って行くと・・・ヨセフに現れて言った。『 立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。・・・殺そうとしています。 』 」に対する、14、15節 「そこでヨセフは立って、夜のうちに・・・逃( のが )れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた」に。
b. 19、20節 「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。『 立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい・・・ 』 」に対する、21~23節 「そこで、ヨセフは立って・・・入った。しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行くのを恐れた。さらに、夢で警告を受けたので、ガリラヤ地方に退いた。・・・ナザレ・・・に行って住んだ」に。
② ヨセフの従順の鍵は・・・
a. 「主の使い」の指示を聞き逃すまいとする忠実さ。
「幼子を殺そうとしています」という緊急事態での顕現。ヨセフはたった今、博士たちから幼子の生涯を象徴する贈り物に与ったばかり。その厳かさの余韻を噛みしめながら、尋常ではない状況判断が出来ていた。
b. 聞かされたことへの即刻の対応。
c. 「入った。しかし」と、聞いては従うという姿勢が、主との絶えざる継続的で、瞬時の交わりの中で為されている。
※ 主への従順には、いい加減さのない真面目さが肝要。
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