マタイの福音書1章18節~25節
先聖日では、ルカの福音書 11章27節、※ 主を育てた母マリアを幸いだと言って来た女性に、28節、※ その事実を肯定しつつ、「幸いなのは」と、「神のことばを聞いて・・・守る人」と仰った聖句から 《 守ったマリア 》 に注目した。
ⅰ 母マリアへの過度な崇拝は慎むべきこと。
マリア崇拝について考えた。人間的には、マリアの 《 主の母としての 》 光栄ある選びの故に、又その選びに相応しい女性である故に、マリアに敬意を表することがあったとしても、礼拝は神ご自身に対するものである為、慎むべきであると。
ⅱ 霊的関係を、肉の家族関係より優位 !! とされたこと。
主が 《 肉の家族関係 》 を否定してはいない。聖書には、父母に対する義務についての言及がある。
但し、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」との言及があることから明白。
ⅲ 真の祝福は、28節 「神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」にあると言われた、それをマリアの姿勢に見た。
マリアが受胎告知に与った時に戸惑い、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と言ったのは( ルカ 1・34 )、マリアの誠実さによるもの。しかし一旦、神からのものと聞いたならば、38節 「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身に」との従順こそ、私たち信仰者の誰もが倣うべき模範的姿勢である。
従う時に伴う代価をものともせずに、ひたすら神の御心がなるように、その為ならば「どうぞ」という従順 !!
※ 主の言われる 《 真の幸い 》 に与る者でありたい、と。
今朝は、マリアの従順に次いで、マタイの福音書 1章18節 「母マリアはヨセフと婚約していた」とあるヨセフの従順に学びたい。
18節b' には、「二人がまだ一緒にならないうちに、( 御使いの言った通り )聖霊によって身ごも」ったという事実が伝えられている。そして私たちは直ちに、19、20節の記事に、マリアが身ごもったというこの事実を認めざるを得なくされた 《 ヨセフの苦悩 》 を見ることになる。
それは、マリアの「胎に宿っている子は聖霊による」とヨセフに伝えられたのが、「彼がこのことを思い巡らしていた」時、「主の使い」によったのが初めてだったから。
ルカの福音書 1章26~38節の記事も、この事実を裏付けている。マリアが受胎告知に与った時、彼女が人間的には到底受け入れ難いとして、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と出たが、「神にとって不可能なことは何もありません」との御使いの言葉に、即刻、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身に・・・」と、信仰を告白した記事。既に自立した信仰が育っていた。誰かに相談してからではなく、又その後、39~45節 「マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした・・・」とある。こうした記事を読む限り、マリアは、受胎告知を受諾( じゅだく )する際にも、受諾したこと自体においても、全く婚約者ヨセフにさえも伝えず、脇目も振らずに飛んで行った所は何と !! 直線距離にして120キロの「山地にあるユダの町」、御使いによって伝えられた、36節 「見なさい。あなたの親類のエリサベツ」の家だったからだ。
こうしたことから実に、「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。 ルカの福音書 11章28節」と主が言われる 《 この「聞いて・・・守る」という主との関係は、極めて個人的なものである 》 と再吟味する必要があるのでは !!
正に、「聞いてそれを守る」という姿勢は、先聖日学んだように、霊的関係は、肉の家族関係に勝るものとの意味を明確にしているからだ。
マリアの懐妊を知ったヨセフに、「神のことばを聞いて・・・守る人」の信仰の姿勢を学びたい。
① 1章19節 「夫のヨセフは正しい( 聖書に忠実な )人」との聖霊の証を得て、全ての思いを一つにして主に従わせた。
マリアの懐妊は、どう考えても結婚関係なくして起こった不貞関係・不義の関係以外には考えられないことで、律法によれば裁きは免( まぬか )れ得ない、明らかに姦淫罪である。
しかしそうだとしつつも、ヨセフは、今まで知るマリアの信仰からはとても考えられない出来事であり、何か事情がない限りあり得ないことだった筈と悩む。
彼は、ここで人間的理解を超えた問題とした時、それを 《 人であるマリアに向けずに、20節 詳訳 「このことを熟慮していると・・・」とあるように、主に向けた 》、ここに正しさを見る。
何という思慮深さ、冷静さ !! しかし、20節の御使いの言葉は「恐れずに」であった。やはり、何故こうしたことが起こり得たのかとの思いは、信頼し合えるマリアを思う時、恐怖が彼の心を締め付けてはいたからだ。
この不可解な出来事を婚約者マリアに、直接事情を聴くことも出来た。しかし、直接マリアからの言葉もない時に、その沈黙を破って話すように促( うなが )すことは、マリアを苦悩に追い込むことになるであろう。ヨセフにとっては、マリアの懐妊による裏切り行為がどの様なものであれ、自分を被害者と見做さず、ひたすら、「マリアをさらし者にしたくな」いという思いだけ。その為には、「ひそかに離縁」する以外に、彼女を救う道がないと「思い巡らしていた」ヨセフ。
ヨセフは、コリント人への手紙 第一 13章5節 「自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留め」ない愛に徹する道を選択しつつ、しかし性急には事態を変えようとせずに、自らの心の判断が正しいのかどうか、全てを待ち望み、主の裁断に委ねたのがヨセフ。「正しい」とはこの愛に生きること。
② 1章20b~23節 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」との告知を受けた時、ヨセフは、24節 「・・・主の使いが命じたとおりにし・・・」とは、何という従順。
自らが決断したことに固執しない姿勢は素晴らしい。
それは、《 あくまでも、自分の思いではなく、主の御心にのみ従いたい 》 とする明け渡しの姿勢に生きているから。
※ いつでも柔軟に主に従える準備された信仰者でありたい。
先聖日では、ルカの福音書 11章27節、※ 主を育てた母マリアを幸いだと言って来た女性に、28節、※ その事実を肯定しつつ、「幸いなのは」と、「神のことばを聞いて・・・守る人」と仰った聖句から 《 守ったマリア 》 に注目した。
ⅰ 母マリアへの過度な崇拝は慎むべきこと。
マリア崇拝について考えた。人間的には、マリアの 《 主の母としての 》 光栄ある選びの故に、又その選びに相応しい女性である故に、マリアに敬意を表することがあったとしても、礼拝は神ご自身に対するものである為、慎むべきであると。
ⅱ 霊的関係を、肉の家族関係より優位 !! とされたこと。
主が 《 肉の家族関係 》 を否定してはいない。聖書には、父母に対する義務についての言及がある。
但し、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」との言及があることから明白。
ⅲ 真の祝福は、28節 「神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」にあると言われた、それをマリアの姿勢に見た。
マリアが受胎告知に与った時に戸惑い、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と言ったのは( ルカ 1・34 )、マリアの誠実さによるもの。しかし一旦、神からのものと聞いたならば、38節 「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身に」との従順こそ、私たち信仰者の誰もが倣うべき模範的姿勢である。
従う時に伴う代価をものともせずに、ひたすら神の御心がなるように、その為ならば「どうぞ」という従順 !!
※ 主の言われる 《 真の幸い 》 に与る者でありたい、と。
今朝は、マリアの従順に次いで、マタイの福音書 1章18節 「母マリアはヨセフと婚約していた」とあるヨセフの従順に学びたい。
18節b' には、「二人がまだ一緒にならないうちに、( 御使いの言った通り )聖霊によって身ごも」ったという事実が伝えられている。そして私たちは直ちに、19、20節の記事に、マリアが身ごもったというこの事実を認めざるを得なくされた 《 ヨセフの苦悩 》 を見ることになる。
それは、マリアの「胎に宿っている子は聖霊による」とヨセフに伝えられたのが、「彼がこのことを思い巡らしていた」時、「主の使い」によったのが初めてだったから。
ルカの福音書 1章26~38節の記事も、この事実を裏付けている。マリアが受胎告知に与った時、彼女が人間的には到底受け入れ難いとして、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と出たが、「神にとって不可能なことは何もありません」との御使いの言葉に、即刻、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身に・・・」と、信仰を告白した記事。既に自立した信仰が育っていた。誰かに相談してからではなく、又その後、39~45節 「マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした・・・」とある。こうした記事を読む限り、マリアは、受胎告知を受諾( じゅだく )する際にも、受諾したこと自体においても、全く婚約者ヨセフにさえも伝えず、脇目も振らずに飛んで行った所は何と !! 直線距離にして120キロの「山地にあるユダの町」、御使いによって伝えられた、36節 「見なさい。あなたの親類のエリサベツ」の家だったからだ。
こうしたことから実に、「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。 ルカの福音書 11章28節」と主が言われる 《 この「聞いて・・・守る」という主との関係は、極めて個人的なものである 》 と再吟味する必要があるのでは !!
正に、「聞いてそれを守る」という姿勢は、先聖日学んだように、霊的関係は、肉の家族関係に勝るものとの意味を明確にしているからだ。
マリアの懐妊を知ったヨセフに、「神のことばを聞いて・・・守る人」の信仰の姿勢を学びたい。
① 1章19節 「夫のヨセフは正しい( 聖書に忠実な )人」との聖霊の証を得て、全ての思いを一つにして主に従わせた。
マリアの懐妊は、どう考えても結婚関係なくして起こった不貞関係・不義の関係以外には考えられないことで、律法によれば裁きは免( まぬか )れ得ない、明らかに姦淫罪である。
しかしそうだとしつつも、ヨセフは、今まで知るマリアの信仰からはとても考えられない出来事であり、何か事情がない限りあり得ないことだった筈と悩む。
彼は、ここで人間的理解を超えた問題とした時、それを 《 人であるマリアに向けずに、20節 詳訳 「このことを熟慮していると・・・」とあるように、主に向けた 》、ここに正しさを見る。
何という思慮深さ、冷静さ !! しかし、20節の御使いの言葉は「恐れずに」であった。やはり、何故こうしたことが起こり得たのかとの思いは、信頼し合えるマリアを思う時、恐怖が彼の心を締め付けてはいたからだ。
この不可解な出来事を婚約者マリアに、直接事情を聴くことも出来た。しかし、直接マリアからの言葉もない時に、その沈黙を破って話すように促( うなが )すことは、マリアを苦悩に追い込むことになるであろう。ヨセフにとっては、マリアの懐妊による裏切り行為がどの様なものであれ、自分を被害者と見做さず、ひたすら、「マリアをさらし者にしたくな」いという思いだけ。その為には、「ひそかに離縁」する以外に、彼女を救う道がないと「思い巡らしていた」ヨセフ。
ヨセフは、コリント人への手紙 第一 13章5節 「自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留め」ない愛に徹する道を選択しつつ、しかし性急には事態を変えようとせずに、自らの心の判断が正しいのかどうか、全てを待ち望み、主の裁断に委ねたのがヨセフ。「正しい」とはこの愛に生きること。
② 1章20b~23節 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」との告知を受けた時、ヨセフは、24節 「・・・主の使いが命じたとおりにし・・・」とは、何という従順。
自らが決断したことに固執しない姿勢は素晴らしい。
それは、《 あくまでも、自分の思いではなく、主の御心にのみ従いたい 》 とする明け渡しの姿勢に生きているから。
※ いつでも柔軟に主に従える準備された信仰者でありたい。
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