ルカの福音書11章27、28節
先週は、「口をきけなくする悪霊」を追い出された主が、非難を浴びられた時、二つのたとえ【17b~19、21~22節】をもって、ご自身の働きが悪霊によるものではなく、20節 「神の指によって( マタ 12・28 ※ 神の御霊 )」なされたと宣言して後、悪霊を追い出された人への忠告( 24~26節 )から、《 救いに与っている者の留意すべき問題 》 として学んだ。
何故なら、主を受け入れ、主のものとされた私たちも又、「汚れた霊」から解放された者だからだ。「汚れた霊」の特色を24~26節に見て、警戒すべき点を再確認した。
私たちは、「汚れた霊」を追い出して頂き、《 罪の赦し & 罪性の清め & 聖霊の内住による新しい歩み 》 に導かれた。
ここで、主の25、26節、の警告が重要になって来る。
「帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って」とある状態に警告が必要なのだ。
主の十字架における救いが、全人格的領域における救いであるにも拘らず、唯、その初次的経験としての 《 罪の赦し ⇒ 犯した過去の罪の赦しにのみ留まり 》、その後、それからの歩みに不注意でいるならば、「家は掃除されてきちんと片付いてい」る空っぽ・真空状態で危険 !! 換言すると、恵みによって満たされていなければ危険な状態なのだと。
何故なら、26節 「自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」と。
※ 「自分の家」とは、住んでいた罪人に愛着を持っているの意 !! 主に明け渡された瞬時の歩みに注意深くありたい、と。
今朝は、主が、27節 「群衆の中から、ある女が声をあげて【感極まって、声高らかに、声を張り上げて】」、「あなたを宿した胎、あなたがた吸った乳房は幸いです。」と言って来た時に、28節 「しかし【その通りです。でも】」と、その事実を否定こそ為さらなかったが、「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」と仰った所に注目して、メッセージをお取り次ぎしたい。
実際マリアは御使いから、1章28節 「おめでとう、恵まれた方。( 脚注参照 ※ あなたは女の中で最も祝福された方。 )」と言われた女性。ですから主も又、この事実を否定されずに認めておられることだけは確かなのだ。
この場面での主の対応に、女性への礼儀正しさを見る。母マリアへの節度ある敬意、と同時に、その選びに与らなかった他の全ての女性への節度ある敬意、特に感極まって叫んで来る女性の思いを重く受け止め、思いやる愛を見るのでは !!
主は、多くの女性たちが弟子として 《 お仕えしたいと願って 》 従っていることを知っておられた。
現に、8章2、3節には、「財産をもって」仕えていた「七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア」を初めとする女性たちの群れが存在していた。
実際、旧約時代において 《 救い主の母となること 》 は待望され続けて来たことであり、サムエルの母ハンナがその典型である。サムエルを神殿に捧げた時に歌った賛歌( サムエル記 第一 2章1~10節 )は、実に、母マリアの賛歌のモデルである。
但し、女性であれば誰しもが願いたい立場ではあったとしても、羨望の的であったとしても、誰しもが得られる立場ではなかったということだけは弁( わきま )える必要がある。
何故ならば、光栄ある祝福に満ちた選びである 《 救い主の母 》 には、質の高い信仰が必要とされていたからである。
主は、母マリアを祝福して叫んで来た女性を慈しみながら、又、そのように評価してやって来たことには同調しつつも、冷静に、母マリアに抱くべき理解を正しつつ、真の祝福が何処にあるのかを明確にされた。
① 母マリアへの過度な崇拝は慎むべきこと。
同じ聖書を用いるキリスト教会において、しばしば問題とされていることの中に、マリア崇拝があるが、主のこのおことばを見る限り、慎むべきであると思われる。
人間的には、マリアの 《 主の母としての 》 光栄ある選び故に、その選びに相応しい女性である故に、マリアを崇拝したくなる気持ちは否めないとしても、やはり礼拝は神ご自身への営みだからである。
ヨハネの黙示録 22章8、9節には「・・・これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。『 いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。 』 」と言及されている。
人の弱さとして、ある人物を偉大な人と見做した時、その人を過度な尊敬で礼拝する傾向性があると自戒したい。
② 霊的関係を、肉の家族関係より優位 !! とされたこと。
主が 《 肉の家族関係 》 を否定してはいない。マタイの福音書 15章1~6節は、父母への当然の義務についての言及である。その前提で、同 10章34~39節では、※ 37節 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」と言われた。家庭が様々な形態で崩壊している今日、主の言われるところに聞くことは、全ての人々への激励である。
③ 真の祝福は、28節 「神のことばを聞いてそれを守る人たち」にあると。
ある翻訳には、27節の「あなたを産み、あなたを育てたお母さんは、何と幸いなことでしょう」を受けて、「確かにその通り。ですから、マリアが神の言葉を聞いてそれを信じた様に、誰でも神の言葉を聞いて、それを信じる人は幸い」とあり、マリアの幸いさは、主との肉の家族関係にではなく、神の言葉に従った霊的関係にあったと伝えている。
マリアが受胎告知に与った時に戸惑い、ルカ 1章34節の、「どうしてそのようなことが・・・」は、マリアの誠実さによるもの。しかし一旦、神からのものと聞いたならば、38節 「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身に」との従順こそ、私たち信仰者の誰もが倣うべき模範的姿勢である。
従う時に伴う代価をものともせずに、ひたすら神の御心がなるように、その為ならば「どうぞ」という従順 !!
※ 主の言われる 《 真の幸い 》 に与る者でありたい。
先週は、「口をきけなくする悪霊」を追い出された主が、非難を浴びられた時、二つのたとえ【17b~19、21~22節】をもって、ご自身の働きが悪霊によるものではなく、20節 「神の指によって( マタ 12・28 ※ 神の御霊 )」なされたと宣言して後、悪霊を追い出された人への忠告( 24~26節 )から、《 救いに与っている者の留意すべき問題 》 として学んだ。
何故なら、主を受け入れ、主のものとされた私たちも又、「汚れた霊」から解放された者だからだ。「汚れた霊」の特色を24~26節に見て、警戒すべき点を再確認した。
私たちは、「汚れた霊」を追い出して頂き、《 罪の赦し & 罪性の清め & 聖霊の内住による新しい歩み 》 に導かれた。
ここで、主の25、26節、の警告が重要になって来る。
「帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って」とある状態に警告が必要なのだ。
主の十字架における救いが、全人格的領域における救いであるにも拘らず、唯、その初次的経験としての 《 罪の赦し ⇒ 犯した過去の罪の赦しにのみ留まり 》、その後、それからの歩みに不注意でいるならば、「家は掃除されてきちんと片付いてい」る空っぽ・真空状態で危険 !! 換言すると、恵みによって満たされていなければ危険な状態なのだと。
何故なら、26節 「自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」と。
※ 「自分の家」とは、住んでいた罪人に愛着を持っているの意 !! 主に明け渡された瞬時の歩みに注意深くありたい、と。
今朝は、主が、27節 「群衆の中から、ある女が声をあげて【感極まって、声高らかに、声を張り上げて】」、「あなたを宿した胎、あなたがた吸った乳房は幸いです。」と言って来た時に、28節 「しかし【その通りです。でも】」と、その事実を否定こそ為さらなかったが、「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」と仰った所に注目して、メッセージをお取り次ぎしたい。
実際マリアは御使いから、1章28節 「おめでとう、恵まれた方。( 脚注参照 ※ あなたは女の中で最も祝福された方。 )」と言われた女性。ですから主も又、この事実を否定されずに認めておられることだけは確かなのだ。
この場面での主の対応に、女性への礼儀正しさを見る。母マリアへの節度ある敬意、と同時に、その選びに与らなかった他の全ての女性への節度ある敬意、特に感極まって叫んで来る女性の思いを重く受け止め、思いやる愛を見るのでは !!
主は、多くの女性たちが弟子として 《 お仕えしたいと願って 》 従っていることを知っておられた。
現に、8章2、3節には、「財産をもって」仕えていた「七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア」を初めとする女性たちの群れが存在していた。
実際、旧約時代において 《 救い主の母となること 》 は待望され続けて来たことであり、サムエルの母ハンナがその典型である。サムエルを神殿に捧げた時に歌った賛歌( サムエル記 第一 2章1~10節 )は、実に、母マリアの賛歌のモデルである。
但し、女性であれば誰しもが願いたい立場ではあったとしても、羨望の的であったとしても、誰しもが得られる立場ではなかったということだけは弁( わきま )える必要がある。
何故ならば、光栄ある祝福に満ちた選びである 《 救い主の母 》 には、質の高い信仰が必要とされていたからである。
主は、母マリアを祝福して叫んで来た女性を慈しみながら、又、そのように評価してやって来たことには同調しつつも、冷静に、母マリアに抱くべき理解を正しつつ、真の祝福が何処にあるのかを明確にされた。
① 母マリアへの過度な崇拝は慎むべきこと。
同じ聖書を用いるキリスト教会において、しばしば問題とされていることの中に、マリア崇拝があるが、主のこのおことばを見る限り、慎むべきであると思われる。
人間的には、マリアの 《 主の母としての 》 光栄ある選び故に、その選びに相応しい女性である故に、マリアを崇拝したくなる気持ちは否めないとしても、やはり礼拝は神ご自身への営みだからである。
ヨハネの黙示録 22章8、9節には「・・・これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。『 いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。 』 」と言及されている。
人の弱さとして、ある人物を偉大な人と見做した時、その人を過度な尊敬で礼拝する傾向性があると自戒したい。
② 霊的関係を、肉の家族関係より優位 !! とされたこと。
主が 《 肉の家族関係 》 を否定してはいない。マタイの福音書 15章1~6節は、父母への当然の義務についての言及である。その前提で、同 10章34~39節では、※ 37節 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」と言われた。家庭が様々な形態で崩壊している今日、主の言われるところに聞くことは、全ての人々への激励である。
③ 真の祝福は、28節 「神のことばを聞いてそれを守る人たち」にあると。
ある翻訳には、27節の「あなたを産み、あなたを育てたお母さんは、何と幸いなことでしょう」を受けて、「確かにその通り。ですから、マリアが神の言葉を聞いてそれを信じた様に、誰でも神の言葉を聞いて、それを信じる人は幸い」とあり、マリアの幸いさは、主との肉の家族関係にではなく、神の言葉に従った霊的関係にあったと伝えている。
マリアが受胎告知に与った時に戸惑い、ルカ 1章34節の、「どうしてそのようなことが・・・」は、マリアの誠実さによるもの。しかし一旦、神からのものと聞いたならば、38節 「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身に」との従順こそ、私たち信仰者の誰もが倣うべき模範的姿勢である。
従う時に伴う代価をものともせずに、ひたすら神の御心がなるように、その為ならば「どうぞ」という従順 !!
※ 主の言われる 《 真の幸い 》 に与る者でありたい。
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