聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 54


ルカの福音書11章14節~26節

先週は、祈り手の心得について、5~7節のたとえ話の結論である、8節 「・・・友だちのしつこさ【根気強さ】のゆえなら起き上がり、必要なものを・・・」から学んだ。

ⅰ この 《 根気強さ 》 とは ?
9、10節 「求め【続け】・・・探し【続け】・・・たたき【続け】・・・」と、力の度合いが加えられて行く様子を、アブラハムがソドム・ゴモラ滅亡の予告を聞かされた時( 創 18・20、21 )に捧げた、主の聖前での、「 ※ 24 もしかすると・・・ ※ 28 ※ 29 ※ 30 ※ 31 ※ 32 」の祈りに重ねた。

ⅱ 主は、9、10節 「そうすれば与えられ・・・。そうすれば見出し・・・。そうすれば開かれ・・・」と確約されたが、《 根気強く祈る祈り手の動機の純潔への約束 》 であるとの弁( わきま )えを。
5、6節 「友人が・・・来たのだが、出してやるものがない」との友人の必要の為、私を憐れんで下さいとの動機が肝要。

ⅲ 主が与えると仰る、8節 「必要なものを何でも」とは ?
13節 「ご自分に求める者たちに聖霊を」とあり、ギリシア語では、この聖霊に冠詞が付いていないので、聖霊ご自身をではなく 《 聖霊の賜物や働きのこと 》 とある学者は言っている。
そうであるならば、内住の主が、私たちの求めに応えて、明確に働いて下さるとの諸々の業を、との約束。その意味で、マタイでは「good things」と複数形であることが頷( うなず )ける。アブラハムの祈りは応えられた。創世記 19章29節。私たちも、友の必要に応えられない無力な者、アブラハムの言うように「ちりや灰」に過ぎない者との自覚に立つ者であればある程、根気強く 《 聖霊の干渉を 》 求める者となる筈。

※ 自らの無力さを認めて、隣人の必要の為に祈りたいと。


今朝は、「口をきけなくする悪霊」を追い出された主が、群衆の中のある者たちから非難を浴びる記事に注目する。
群衆たちが驚嘆する中、ここでも反対者たちからの非難に直面された。他の福音書によると、彼らが「パリサイ人たち」だったとされているが、15節 「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」、16節 「イエスを試みようとして、天からのしるしを要求した」とある。
今朝は、前者の 《 悪霊どもとの関係 》 が取り扱われている部分に学び、後者の 《 求められたしるし 》 に関しては、29~32節で学ぶことになりますが、ここでも主は、彼らの ※ 16節 「イエスを試みようとして」と、主を試し、誘惑して貶( おとし )めようとする不純な動機が明らかであるのを知った上で、17節 「彼らの心を見抜いて言われた」と、懇( ねんご )ろに扱われる。鬱陶しがらずに、なお彼らの魂に愛を注がれる。
その答弁は、明確だった。誰一人として反撃できるようなものではなかった。
主は二つのたとえをもって、ご自身の働きが悪霊によるものではないこと、20節 「神の指によって」、マタイの福音書 12章28節では「神の御霊( みたま )」でしておられると宣言された。
【ⅰ】 17b~19節 「どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家も内輪で争えば倒れます」と。
【ⅱ】 21、22節では、「強い者 ⇒ サタン」を打ち負かす「もっと強い人 ⇒ 主」が襲って、「武具を奪い、分捕り品 ⇒ サタンの虜になっていた人々」を奪い取る( 解放する )、と。

主は非難する者を厳格に扱われて後、主は牧会者 !! ここで、悪霊を追い出してもらった人への忠告を怠らなかった。
その忠告が、24~26節であり、救いに与っている者の留意すべき問題であるとして学びたい。
主は、口がきけるようになった人から出た「汚れた霊」の動きについて語っておられますが、私たちは、その「汚れた霊」の特色をしっかり把握した上で、その「汚れた霊」から解放された人、即ち、主を受け入れ、主の者とされた私たちが、その後、信仰生活を送る際に注意すべきことが語られている部分として、学んでおきたい。
先ず、「汚れた霊」の特色について見ておきたい。
24節 「人から出て行くと、水のない地( ということは、人が住んでいない荒野 )をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『 出て来た自分の家に帰ろう 』 と言います」、25節 「・・・家は掃除されてきちんと片付いてい」ることが分かると、26節 「出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます」ということ。
この悪霊の性質を知った上で、信仰生活の姿勢を吟味したい。
私たちは、「汚れた霊」を追い出して頂いた者であること。
エペソ人への手紙 2章1~6節 「・・・かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。・・・しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛の故に・・・」とある。
この救われた恵みとは、明らかに 《 罪の赦し & 罪性の清め & 聖霊の内住による新しい歩み 》 の全てを意味している。
ここで、主の25、26節の警告が重要になって来る。
「帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています」、「そこで出かけて行って・・・」とある状態に警告が必要なのだ。
主の十字架における救いが、全人格的領域における救いであるにも拘らず、唯、その初次的経験としての 《 罪の赦し ⇒ 犯した過去の罪の赦しにのみ留まり 》、その後一向に、それからの歩みに不注意でいるならば、「家は掃除されてきちんと片付いてい」る空っぽ・真空状態で危険だ。換言すると、恵みによって満たされていなければ危険な状態なのだと。
罪の赦しの後、直ちに自らの内的腐敗性に気付き、血潮による清めに与ることによって 《 聖霊の満たし、聖霊によって身も心も全て支配して頂くこと 》 に注意深くあるべきなのだ。
何故なら、26節 「自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住み付きます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」と。
七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアが( ルカ 8・2 )、良く主に仕え、復活の証人として 《 十二弟子ではなく、彼女が選ばれた理由 》 を学んだ時それは彼女が、出て行った悪霊の性質をよく知り、救い後の生活に注意深くあり、主から離れる隙を作らず、一挙手一投足主の導きに従ったからだと。

※ 「自分の家」とは、住んでいた罪人に愛着を持っていることの意 !! 主に明け渡された瞬時の歩みに注意深くありたい。

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