聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 53


ルカの福音書11章5節~13節

先週は、主が、1節 「私たちにも祈りを教えてください。」と願い出た弟子たちを指導された 《 祈り 》 に学んだ。
主と生活を共にして来た最後の最後、十字架の日に向けてのエルサレム行き最後の旅でのことだったが、主は、彼らに霊的渇きが起きるのを待って指導されたことが分かる !!

ⅰ 先ず、2節 《 主ご自身を考えるべきこと 》 を。
a. 祈る時、最早、神を近付き難いお方としてではなく、主が「父よ」と呼ばれたのに等しく、信頼して呼ぶようにと。
b. その父が「聖なるものとされますように」とは、崇められるようにである。神が礼拝【感謝】されるべきこと。
c. 「御国が来ますように」と。御国とは、神の御心【聖、愛、義、あわれみ、まこと】が支配する国、それが迎えられるようにと。

ⅱ 3、4節 《 私たちは悉( ことごと )く神に依存している者との告白 》 を。
肉体的生活、霊的生活の両面における必要において。特に霊的必要性においては、罪を犯す可能性を持つ者との謙虚さ、その弱さの十分な自覚から出て来る祈り。

ⅲ 4節 《 隣人との健全な関係の告白 》 を。
神に 《 罪の赦しと罪を犯すことからの助けを 》 求めるのであれば、隣人から被る悪しき言動がどれ程のものであれ当然赦すべきだとの自覚で祈るようにと。
何故なら、マタイの福音書 18章21、22節 ⇒ 32、33節 「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。」とあるからである。

※ 主が指導された祈りは、祈りの基本姿勢であるとして、自らの祈りの生活を吟味しつつ祈りの生活に成長を、と。


今朝は 《 祈り手の心得について 》 学びたい。
5~7節のたとえ話の結論は、8節 「この人は友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさ【根気強さ】のゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう」にある。

このたとえ話から・・・

① この 《 根気強さ 》 とは ?

9、10節 「求め【続け】なさい。・・・探し【続け】なさい。・・・たたき【続け】なさい」と語られている通り、祈りに求められている粘り強さを、三つの段階で力の度合いが加えられて行く様子で伝えられている。
アブラハムがソドム・ゴモラ滅亡の予告を聞かされた時、主の聖前で祈った祈りに重ねて考えたい。
創世記 18章16~33節で、22~32節 「アブラハムは、まだ主の前に立っていた。アブラハムは近づいて言った。『 あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。※ 24 もしかすると・・・ ※ 28 ※ 29 ※ 30 ※ 31 ※ 32 』 」と、初めは、「五十人」から、「・・・四十五人・・・四十人・・・三十人・・・二十人・・・そこに見つかるのは十人かもしれません」と、33節 「主は、アブラハムと語り終えると、去って行かれた」とあるのは、実に主の言われる 《 祈り手の姿勢 》 ではないだろうか。
主はアブラハムのその祈りに付き合ってくださった。
アブラハムにあった粘り強さには、人間的な勢いはなく、むしろ、25節の主のご性質に基づく祈りであり、自らの分が弁( わきま )えられた謙り【27、30、32節】があり、砕かれた姿勢がある。

② 主は、9、10節 「そうすれば与えられます。・・・そうすれば見出します。・・・そうすれば開かれます」と確約しておられる。

この「そうすれば」とは、《 根気強く祈る祈り手の、動機の純潔に対する 》 約束である点を見落としてはならない。
ルカのたとえ話に出て来る祈り手は、5、6節 「その人( 友だち )のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『 友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。 』 」とあるように、自分の為にではなく 《 友人の必要の為に、私を憐れんで頂きたいという動機からの祈り 》 だからである。
先のアブラハムの祈りも又、滅びが予告されたソドム・ゴモラに住む 《 甥( おい )のロトとその家族の救い 》 の為だった。
ヤコブの手紙 4章3節 「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い( 間違った目的、利己的 )動機で求めるからです」との警告があるが、根気強い祈りを捧げる際には、先ず、動機の純潔の如何を調べる必要がある。
ヨハネの手紙 第一 3章21~23節 「・・・求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。・・・互いに愛し合うこと、それが神の命令です」とあるのも 《 愛に基づく動機 》 の如何が問われている。ヨハネの福音書 15章7節 詳訳 「もしあなたがたがわたしの内に生きるなら【わたしとの生命的結合の中に留まるなら】、又、わたしのことばがあなたがたの心の中に生き続けるならば、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば必ず叶えられます」ともある。

③ 主が、8節 「必要なものを何でもあげるでしょう」とは ?

a. マタイの福音書 7章11節では、「ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」とある。
ここで確認しておきたい。あくまでも「良いもの」であるということ。ところが、私たちはあくまでも物の考え方・見方が狭く、近視眼的である為に、私たちの目には「パンを求めているのに石を・・・。魚を求めているのに、蛇・・・」が与えられているのでは ? と思うことがあるかも知れない。
仮にそのように思えても、「それならなおのこと」と、最善の物しか与えられないと信じて信頼することが重要。
b. ルカでは、13節 「ご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」とある。
ギリシア語では、この聖霊に冠詞が付いていないので、聖霊ご自身を与えてくださるという意味ではなく 《 聖霊の賜物や働きのこと 》 と学者が言っている。とすれば、既に私たちに内住しておられるお方が、私たちの祈りに顕著に応えて、明確に働いてくださるとのお約束である。その意味で、マタイの福音書では「good things」と、複数形で書かれていることが頷( うなず )ける。アブラハムの祈りは応えられた。創世記 19章29節。
私たちは、このたとえ話の祈り手のように、友の必要に応えることの出来ない無力な者との自覚に立つ者であればある程、根気強く 《 聖霊の干渉を 》 求める者となる筈。

※ いよいよ素直に自らの無力さを認めて、隣人の必要の為に、憐れんで頂き、聖前に出る者でありたい。

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